Lisco RegalIIホルダを5枚2,500円で譲り受け、うち2枚を削る。
積雲がちらほらあって今日は無理かと思っていたら14時過ぎに晴れわたったのであわてて出かける。近場ということで両国。国技館だ。これは地上からではどうにもならない。アサヒビール本社へ。直近から見るのははじめてだと思うが、ホールも本社ビルも思っていたより小さい。これもふもとからでは難しい。隣の首都高か遠目からの視線を意識しているようで、足下から見上げる目は考慮されていない。敢えてやるなら早朝に東からだが、それほどのものとも思えない。勝海舟像に展開するが高すぎて話にならない。天気がいいのに残念だがあきらめて両国へ戻り、両国橋を渡った欄干の球形の装飾をよくよく見てみたらおもしろいのでやってみることにする。未露光のホルダの引きぶたに指がかかって少し開けてしまう。ホルダへの輪ゴムかけは不要と思っていたがやはり必要だったか。それともロックを励行するか。18時過ぎで日が低く建物の影に入ったので反対側に渡り、三脚が届く限り近接してEV13.5、3m、2m。暗すぎか。1枚目はわりあいおだやかだったが次は風あり。結局ブレ対策はなし。
東京都慰*霊堂は建築史的には興味深いのかもしれないが遠目には寺院と五重塔にすぎない。全体の造形としては今回の趣旨にはとりたてて適した対象ではない。
気を抜いて単純に建物を追っかけていると「名建築」巡りになってしまいかねないので注意せねばならない。建築鑑賞をやっているわけではないのである。アカデミズムの影響力というのは強いもので、素朴にただ見ることを許さず整序され精製され規格化された対象のとらえかたをじんわりと迫ってくる。ものごとに興味を持って調べはじめたりすると、知らぬ間につきをつかれて、アカデミズムに権威づけられた情報にあちこちから絡めとられてしまっている。野鳥をぼーっと眺めているという状態に対しては、その分類や生態についての体系化された知識は有用かもしれない。自然科学の提供する情報は実証的であり客観的であるという一定の保証が与えられているからだ。むろん完全に客観的かつ無偏向かつ無謬的とはいえず、その正当性の根拠は最終的には専門家集団の合意にしかないにせよ、少なくともその手続きは人文諸学にくらべれば錬成されているはずだ。建築を単なる造形的素材として見るにあたって、建築史的意義/評価基準/語彙といったお仕着せの恣意的な枠組にとらわれているようではやってる意味がない。どれだけ好き勝手に見ることができるか次第である。それはまた社会的に通用している文脈の桎梏からいかに離れられるかということでもある。どこまで自由にものを見られるか。あてがわれた文脈を自前の文脈にすげかえたというだけで、どのみち文脈からは逃れられないのかもしれない。だが、悲観するにはおよばない。いずれ健忘症という救済者が顕現して、この逃れがたい文脈の網の目から解き放ってくれる。以前夢想していた「健忘症的美術」は読み誤っていた。美術制度内での新しい意匠をひねり出そうとしている時点で依然がんじがらめというほかなく、健忘症からは程遠い。そのような対文脈意識をも忘却してはじめて実現される健忘症的知覚こそが求められるべきものであった。認知症的認知とでもいうべき境地。仏教の講話か一時期はやった老人力じみてきたがそんなことはない。脳年齢なんぞを気にしてばかりおる世間の軟弱者どもの目にもの見せねばならぬ。