昨日の考察は見誤っていた。
今回の写真は透視図法的な線遠近法に全面的に則っている。いわゆるパースというもの、超広角レンズを使った写真をさして「パースがきつい」と称したり、上すぼまりになっている建築写真について「パースがついている」といわれる場合のパースとは、遠近法というよりは奥行き感のようなものと考えられる。そのパースをちょっとしたトリックによって反転させたものである。
広角レンズを使っていれば自然に体得されることだが、建築物を写真の平面上に再現する際、その建築物にパースがつくかどうかは建築物とカメラの受光面との位置関係に決定される。もっと直截にいうなら、建物の壁とフィルムなどの傾き次第である。レンズなり結像系の角度はピントを左右するだけで幾何学的比率にはまったく影響しない。カメラを上に向けて建物を見上げている場合、一般のリジッドボディのカメラでは、受光面の下部が手前、上部が奥にある状態で傾斜している。このとき結像は上すぼまりの八の字型となる。いわゆるタテリが出てないというやつだ。透視図法の語彙では、縦方向の線が上方の消失点に向かって収束するので三点透視図法にあたる。
次に、カメラを徐々に下方向に向けていって、レンズの中心方向を水平にした場合を考える。建物の壁が垂直であれば、受光面も垂直になっているので縦方向の線は傾くことがなく、壁の線は収束することがない。これは、広角レンズを使う場合には光軸を水平方向に向ければ遠近感が誇張されることなく自然な空間再現が得られるという基本的知識として、誰もが初期段階で習得する広角レンズ使用時の規範である。この場合垂直線は平行であり、二点透視図法である。さらに横方向も壁と受光面の角度を一致させ、完全に平行にした場合、壁が長方形であればそれと相似の長方形として再現される。壁の奥行きは消失する。これは鏡に正対しているのと同じ状態であり、壁に突起がなければ透視図法上の消失点は画面中央となる。これは一点透視図法相当となる。
さらにカメラを下方向に向けて回転させる。受光面の下部が手前、上部が対象側に傾いた状態となる。そうすると、壁は下方向に収束し、上が広がる逆八の字の形態となる。また三点透視図法に戻るが、垂直方向の消失点は前回とは逆に下方に位置している。ここで、カメラに装着してあるのが広角レンズであり、カメラの画面中心方向は下を向いているのだが、観察者の視線方向としては、カメラの視野の周辺部で建物を見上げた状態を考える。下から見上げているにもかかわらず消失点が下にあることで、われわれがなじんでいる遠近法的秩序とは乖離した像となる。この逆八の字の効果は、広角レンズを装着したカメラであればたやすく得られるが、一般の写真撮影用広角レンズでは画角がせいぜい120°程度なので、建物と受光面との傾斜角度を大きくとれず、逆八の字の収束の度合は弱い。今回の写真はピンホールカメラを用いることでこの傾斜角度を大きく稼ぎ、逆八の字のすぼまり具合をより大きくしたということである。
フィルムがどれだけ傾いているか、それだけの問題なのだ。
これらの写真における奥行きの転倒は、その傾斜角度をパラメータとした射影幾何学的帰結としてきわめて明確に説明される。これは一見したところ尋常の風景ではないが、透視図法すなわち線遠近法の拡張であり、その枠を逸脱するわけではない。つまり、これらは線遠近法の規範に支配されている。これらは線遠近法から考えていけば論理的に理解可能な結果であり、実際に広角レンズによる写真の周辺部にはこうした現象がときおり見受けられるのであって、これらが「尋常ではない」という印象を与えるのは線遠近法的規範との比較によるのではなく、われわれの日常的視覚経験との比較によるものであると考えられる。広角レンズの、肉眼が与える視覚とは異なる空間再現をわれわれは見慣れている。世間にありふれている。それでもそういった空間再現が今なお奇異に映るのは、遠近感が誇張されてはいない大多数の写真の記憶との比較によるというよりも、やはり肉眼を通じて得られる視覚経験との対照によっていると考えたほうが無理がない。つまり、昨日予想したとおり、今回の写真は、写真によって刷りこまれた遠近法的認識という文脈には制約されていない。写真における空間再現の原則の支配下にはあるが、写真というジャンルには依存していない。そして、遠近法の極限の条件にありながらなおも線遠近法の原理を踏襲していることが、自然な視覚による世界把握に抵触する。要するに写真内の約束事に終始している違和感ではなく、閉鎖的判断規範から解き放されたきわめて単純な驚きをもたらす。このように考えていいのではないか。