午前中特快晴。のち雲が増えだす。
御茶ノ水湯島聖堂。ここはいい。焼失し再建されており、しかも鉄筋コンクリート造なのだが、それでも1935年造。黒塗りで見た目中国風。だがもともと学問の拠点だっただけのことはあり、そこはかとなく知的なたたずまいが感じられる。でも、単純に設計者が伊藤忠太だからというだけかもしれない。
神社よりも寺のほうが好ましく思えるのは、寺のほうが造作が立派だということもあるけれど、仏教というものを基礎づけている論理的なものの考え方になじみがいいからなのだろう。仏教はきわめて論理的に構築された体系をもっていて、その根底には合理主義的態度がある。いやまともに学んだことはないのだが、きっとそうなんでしょう。それに対して、神道には明確な教義や整合的な信仰体系といったものはどうやらなさそうだし、御祓いや憑依や巫女といったシャーマニズムに染められていて、全体として神秘主義である。さらにいうなら「空気読め」的おつむの悪そうな気配が充満してそうだ。僧侶には大勢の人間に講話を傾聴させるだけの弁の巧みさや、さまざまな利害関係の調停をこなすような懐の深さが求められて、バカじゃ務まらないだろうが、神主に高度な知的能力が要求される局面というのはとりたてて思い当たらない。もちろん仏教にも密教や読誦行などトランス状態をもたらす呪術的要素はあったりで神秘主義的な流派も存在するにせよ、所詮は傍流だろうし、神道にも国学という体系化はあったとはいえ神道自体とは別ものと思われ、しかも平田篤胤以降の国学がもたらした社会的影響を考えると、どんなものかと。仏教には、問い、考えるという態度が根底にある。それが建築のつくりにも反映しているような気がする。すべてがそうとはいえないが、明晰で筋が通った設計で、きりっとしている寺が多い。神社はどこか土着的な泥臭さから脱しきれないような気がする。しばしば屋根に生えている千木と鰹木も、一般の木造家屋とは乖離した非日本的といってもいい装飾で違和感が先に来る。思いつきと憶測だけで論拠はない。ただの印象。
湯島聖堂は直接には孔子を祭る廟なのだろうが、見通しがよくてたいへん気分がいい。神社はたいがい鬱蒼と木が生い茂っていて、こうなんというか昏い傾向があるのだが、寺は概して明朗で風通しがいい印象を与える。湯島聖堂にもそれに近いものがある。土着の民間信仰に根ざす宗教とエリート受けのいい舶来の哲学との差なのかもしれない。右側に高層集合住宅が入ってくるけれど、まあよしとしよう。13時ごろセットして撮影しようとしたら西から雲が出て断念。近いし、またいつでも来られる。しかしここには焼失を免れたという創建以来の山門があったりして、そこから登っていく格好でもあり、実質はほとんど仏教施設に見える。
次に神田明神。派手。江戸総鎮守とのことで、それなりの格式は演出されている。儀式関連の収入が多そうだ。このあたりとしては敷地を保っているほうだろう。正月の飾りつけもはじまっていて、元旦には混雑しそう。邪魔物も多いが、一回撮影しておいてもいい。しかし御籤やら絵馬やら祈祷料やら、神社特有の土俗的風習というか集金制度のなまなましさが撮影意欲を減退させる。奥のほうにはあちこちにもとあった神社が引越ししてきている。東京の都市化に伴って地上げされ、代替地としてここをあてがわれた様子。神さんも立ち退きさせられるとは難儀なことだが、同じ敷地内に間借りしてひしめきあっているのはいかにも八百万の神々らしいともいえる。
妻恋神社はさっぱり。霊雲寺には行き着けなかったような気がする。さらに湯島天満宮。ここはまあたいしたことはない。学問の神様を祀ってあるというふれこみなのだが、ざっと眺めた限りではほかより知的水準が高そうな風情は見当たらない。麟祥院は気がつかず。
と北上して行き池之端方面。講安寺は鉄筋コンクリートだったような。覚性寺、東淵寺、正慶寺、妙顕寺、忠綱寺、休昌寺、妙極院あたりをひとしきり回ったのち、根津駅から要町へ。熊野神社を覘いて大山で修理に出したSV45を引き取り、板橋から帰還。