こうした光の具合のいい日に繰り出すと気分がいいのは、開放感とか達成感だけによるのではないような気がする。むしろ達成感などもとより乏しい。たいていは撮影などできずただ歩くだけなのだから。この充足感の内実は、とにかくも撮影を名目として時間と労力を使うことで、自分がまぎれもなく写真を行う者だと確証を得ているということなのではないか。それは撮影に出たときよりもしばらく撮影に出られないでいる期間のことを考えてみると如実にわかる。写真で生計を立てず、社会的にも写真「家」として認められていない人間が、それでも写真をなす者だと確認できる手段はただ一つ、撮影に出かけて写真をつくること以外にはない。その行為そのものよりも、行為の結果もたらされる自己同定が、その人間が写真をなす者であることの唯一の根拠となるのだ。にもかかわらずそれができないとなると、鬱々としてきて精神状態がきわめて悪くなる。世間的に益体のない存在であり、ただ写真だけを支えにしている、いやそうせざるを得なくなっているのであるから、その機会が得られなければ存立基盤が危機に瀕する。そうならないために機材を背負って三脚を持っててくてく歩くという儀式を行っているのではないかとさえ思えてくる。足のマメや肩の痛みで、写真をやる人間として生存しているとの手応えをようやく得ているのかもしれない。「アーティスト」であるとみずからが主張しなければ、「アーティスト」であるというのが吹き飛んでしまう。世間で言われるところの「自称詩人」「自称ミュージシャン」と大筋ではなんら変わらない、いたって滑稽な身の上である。職務上の技術や能力が低い者ほど「プロ」だなどと強調したがるのにも似ている。それは世間に対してそう認めろと強要しているという以前に、みずからにそう思いこませることでどうにか矜持を保っているのではないか。他人はどうだか知らないけれど、展示を行うのは、実際に形にしているという事実をもって、「自称」ではないと世間に、いやそれよりも本人に言い聞かせ、自己同定を補強するためなのかもしれない。