写真は選択か

そりゃたくさん撮影できれば高揚もするし充実した気分になれるんだろう。でも10数年来、機材背負って出かけても撮影しないで帰ってくることのほうがずっと多いという調子でやってきているんだからしょうがない。おもしろいかどうかわからないけどとりあえず撮影しておいてあとで吟味、なんていうことの無駄さ加減は、やってるうちにすぐわかる。おもしろいかどうかがその場で判断できない、というのはすなわちつまらないということだ。その程度の見きわめは、自分のその場での判断に従う限り、ただちに行えるようになる。撮影しておいてあとで吟味し直すというのは、本人の直観的な判断以外の基準で見るということなのだろう。「誰々の基準で見てみると興味深い」とか「これとこれを組みあわせてみると別の意味が発生する」とか「何々風だからおもしろい」とか。およそどうでもよろしい。撮影の時点では見落としていたことに気づくということはもちろんしばしばある。しかし撮影後の吟味でまったく違った意味合いを発見するというのは、「写真を読む」などという言い回しで喧伝される、写真に対し恣意的な意味づけと過剰な深読みを求める態度の影響なのではないだろうか。

多数の写真を撮ってセレクトに賭ける、偶然性に頼った多くの凡庸な写真家


という文言に、前後の脈絡をまったく離れて勝手にわが意を得たりの感。ただ、凡庸なのはそうした写真家というよりも、そのような方法をよしとする、さらにはそうした方法しか写真には存在しないかのように言いなす態度のほうである。
 
写真は選択である、などという決まり文句の空虚さについてはかつて指摘したが、より詳しく考えてみる。
カメラを使った一般の再現的な写真に必要なのは対象である。われわれは対象を選ぶ。それはそうだ。ノーファインダーで盲滅法撮りまくるとか自動的ないし不随意な仕掛けでそこらにあるものを見境なく撮影するというのでもない限り、選ばなければ撮影できない。これをもって選択だと主張するのであれば確かにそうである。しかしながら、対象の選択は再現的な絵画であれ彫刻であれ版画であれいわゆる映像であれ、再現的なメディウムであれば必ず行われている。描写的な文章においてもそうした選択はあるし、日常的な会話にあってさえ主題の選択がなされている。これをことさらに写真固有の事情であると考えるに足る根拠はどこにも思い当たらない。
次に、撮影に際してわれわれはさまざまな判断を下す。レンズの画角や感度や絞りやシャッタースピードといった、明確に変数として記述可能な因子から、撮影位置やフレーミングから露光のタイミングなどの撮影を制御する不定型な決定機会に至るまで、多くの決断の連鎖とも見なしうる。これを、数限りなく存在する可能性のなかからただひとつをそのつど選択している、と考えてもいいだろう。ではあるものの、たとえば食事において、いつどこで何を食べるか、さらにはこの瞬間にどれに箸をつけるか、といった選択をしていることとそれとのあいだに有意の差はない。そのように見るのであれば、外出であれ、買い物であれ、web閲覧であれ、われわれの行動はすべてつねに選択の契機にさらされているのであって、そうした意味で写真が選択であると主張したところで、写真について何ごとかを述べたことにはならない。他のどのような行為とでも置き換えがきくのだから、実のところまったく無内容である。
プリント時のトーンコントロールや面質など提示媒体の選択についても、展示やらなんやらでも同様である。多様な紙のなかから選べるのは壁紙だって同じだ。なんなら壁紙のかわりにディスプレイをびっしり貼りつけたっていい。
このように考えていくと、写真の工程上でまぎれもなく選択であると見なせるのはひとつしかない。撮影したなかから選び出すという作業である。これは反論の余地なく写真における選択であると認めざるをえない。ずらりと並べたなかから選別するのであれ、順次表示されるのをえりわけていくのであれ、なるほど写真ならではの選別方法、写真以外のメディウムではやりづらそうなセレクションが行われていて、しかも、その過程が結果の内実に多大な影響を及ぼすと想像されるからである。これだけが、写真特有の選択であると見なしうる局面であろう。その作業が行われるのであれば。
ところが、われわれの制作過程が必ずしもそうした工程を経るとは限らないのだ。11x14とか20x24といった巨大なフィルムサイズのカメラで、数枚撮影して事後的に選び出す、などということは現実的に不可能と思われる。せいぜい、フィルムホルダの両面のフィルムを同一条件で撮影して、片面の現像結果を見て残りの現像条件を調整する、あるいは必要がなければ廃棄する、といった程度であろう。20x24カメラ用に供給されている通常の製品はポラロイドフィルムであり、その場で結果が出る。万全の準備を整えて撮影、うまくいけばそこで終了、不満ならやりなおし、それだけである。その結果を展示に入れるかどうか迷うといったことはあるかもしれないが、それは工芸であれ服飾であれ調度品であれ、展示なり物販なり物品を限られた空間で陳列するという業態につきまとう場面であろう。選択という過程に写真のありかたの根幹を帰するときに想定されるような、多数のコマからセレクトすることで全体の内容を構成していく、などという機会はかけらもないはずだ。一般にシートフィルムを使う場合にはそうなりやすく、大型のフォーマットほどその傾向が強いだろう。撮影コストや運搬の問題からたくさんは撮影できないということもあるが、セッティングに時間がかかるので、そんなにバカスカあちこち撮影して回るような余裕などないということが大きい。写真の王道とか本道などという言辞を好む手合いがいるが、歴史的にはそのような撮影スタイルが起源すなわちオリジナルなのであり、スナップなどというスタイルが出てきたのはずっと後である。
たくさん撮影したなかから選ぶ、というのは単なるスタイル、流儀でしかないのである。流儀である以上は他の流儀も当然ながら存在する。いまやっていることは失敗が多いのでひとつの対象につき複数枚に露光するが、大筋では同じものである。撮影したいくつかの対象をふるいにかけたりはしない。撮影したからには残す。落とすようなものならはじめから撮影などしない。何しろたった1枚のネガのために数日がかり、直接経費だけで数千円とか1万円以上を費やしているのである。これは機材の制約から条件づけられた部分も大きいが、35mmカメラだけでやっていた時期から基本的にはこうした撮影スタイルだった。別に特殊なカメラの場合にだけ想定される極端な状況なのではない。目を惹かれないものを撮影しても意味がないという思いが嵩じていった結果、35mmでありながらフィルムをわずかにしか消費しなくなったのだ。だから、「そのように撮影するようになったのもそのスタイルを“選択”したからだ」などという禅問答まがいのツッコミに対しては、選択も何も、日頃の習慣で否応なくこういうスタイルになってしまった、と応じるほかない。選択の余地なくそうなってしまう、あるいは進んで選んだ覚えもないのにいつのまにかこうなっている、ということはしばしば起こる。その実例はのちに述べる。用意された選択肢のなかから自由かつ思いのままに選択できる、という前提がそもそも見誤っているのである。選択できるにしても、その選択は限られた条件のなかでしかできない。ないものは選べない。だが、選びようのないところにこそ、往々にして核心がある。通常のリジッドボディのカメラで今やっているようなことをやろうとしてもできるわけがないし、それ以前にそんな可能性に気づく糸口すら与えられない。選択が勘所であるかのようなイデオロギーに染まっている限り、与えられた選択肢を可能にしている条件の外には出られない。重要なのは選択ではなく、条件そのものをたえず問い直すことのほうなのである。
写真とは選択である。確かにそのような写真の流儀もある、しかしそれがすべてではない。写真はあらゆる点で選択だというような言辞は、そう主張する人が写真に関して有する理解の限界をはからずも示しているという以上の意味をもたない。教育手法としては、大量に撮影させて選ばせるというのはある程度有用なのかもしれない。だが、その結果そうした流儀の写真ばかりが世にあふれかえることとなる。あたかも量は正義であるかのごとくに吹聴され、撮影量が少ない人間は間違っているかのような風潮となる。日本の鑑賞される写真では60、70年代には小型カメラ全盛であったようで、大判が広く使われるようになったのは80年代からである。70年代までに確立した大量撮影のメソッドがいまだに引きずられているのだろう。アンドレ・ケルテスは、毎日7本のフィルムを持って出かけ、必ず使い切ってくるなどという撮影手法が愚かしいと70年頃に語っていた(『ヌードの理論』)。多く撮影したなかから選ぶという流儀によって、見るべき写真がわずかながらも今なお作られ続けていることは認めるし、そうした流儀を否定するつもりはさらさらない。与えられた条件の限界をわきまえた上で、あえてその枠内にとどまるならむしろ敬意を表する。しかしそういった意識の持ちあわせなどなく、みずからの撮影スタイルにただやみくもに固着しているだけにしか見えない人々があまりにも多すぎる。しかもそうした傾向は今後さらに強まるだろう。なぜか。
デジタルカメラがそうさせるのである。単純にコストが安いからというだけにとどまらない。陳腐化が早く、1、2年もすれば確実に、より高性能の機種にとってかわられるので、とにかく買ったら可能な限り使い倒さないと元が取れない、という計算に囲い込む消費財なのである。パソコンであれ、かつてのオーディオ機器であれ、スペックアップしていく工業製品はみなそのような消費性向を購入者に強いるようにできている。フィルムカメラは機能こそ向上するものの、描写性能を決定づけるのはおもにフィルムとレンズであり、カメラが最新機種でなければということはなかった。しかしデジタル一眼レフカメラでは最新最高機種がもっとも画質がいいというヒエラルキーが厳然として存在するので、画質を問う用途では買い替えていかざるを得なくなる。コンパクトデジタルカメラでは品質が飽和し、当然のなりゆきとして価格競争に陥り、値崩れサイクルが早い。デジタル一眼レフでもいずれは輝度再現域も含めて性能が飽和するだろう。一般的用途に対してはすでに充分かもしれない。そうなるとどうなるか。かつての音声再生機器の変遷を考えるとよい。次々と規格を変えていくのである。いずれ今のレンズでは新しいボディに使えなくなり、逆も使用不能になる。そうするとシステム全体を入れかえていかざるを得なくなる。Nikonはすでにそれをやっている。遡ればMinoltaとCanonオートフォーカスへの移行期にマウントを変更して実質的に旧ユーザを切り捨てた。消費者は終わることなく機材を更新し、金を吸い上げられる構図となっているわけだ。パソコンのソフトとハードの際限のない更新圧力と同じで、周辺機器も動員してなかなか逃げられないようになっている。こうして、せっかく買ったのだから古びる前にどんどん使わなきゃという心理状態へと陰に陽に導かれ、大量に撮影しては選別するという流儀に、機材のほうから追い込まれるであろう。業務用ならとにかく連日稼働させることになるが、そうでなければ、大量に撮影するには行った先々で片っ端から撮影するのがてっとりばやいと誰もが考えるに違いない。かくしてweb上には似たような身辺スナップ画像があふれかえる事態となる。恒常的収入手段を失った人々がみな同様のスタイルに落ちつくように、誰に指導されたわけでなくても一律の帰結に収斂することとなる。デジタルカメラは個体で完結しており、レンズを交換する以外にほとんど手の加えようがなく、あとはこれも誰でもやっているような、出来合いのソフトウェアの選択とコマンドやパラメータの選択、時にはその名からして「選択範囲」の設定、あとはせいぜいインクジェットプリンタ用紙の選択というあらかじめ用意された条件のなかでのポストプロセスしかないので、とにかく量を撮影する以外にやれる余地がないのだろう。撮影したなかでの「いい写真」の比率は一定であり、たくさん撮影すればクズも増えるが「いい写真」も多く得られるという単純物量投入型の大量生産となる。まさに使い捨て商品であるデジタルカメラの模範的な消費者というべきである。
デジタルカメラに限らず、量撮って選ぶという流儀では、手近で容易にアクセス可能な対象は限られている以上、複数の撮影者がお互いに撮影対象を共有し合うこととなる。画面の様式も有限なので重複してくる。量を撮れば撮るほど似通ってくることとなり、個別の画像内容では際立った差など消失してしまう。その結果、選ぶ当人の内面なり物語なり、何やら得体の知れない代物を写真の背後に構成して、その反映という点に、一組の写真の選択と配列とがそうあるべくしてあるという理由をもたせるほかなくなるだろう。
現今の風潮は大筋そんなところか。なかには「うまい」人、ちょっとめずらしい味つけの人もいる。しかしそれもどこかで見たような様式を応用する手腕に長けているというだけのこと。
アブク景気期には選択がすべてであるかのような風潮があった。数あるブランドのなかからどれを選び、どう組み合わせるかが「センス」の見せどころというわけだ。何を着るか、どの地域でどんな店で食事するか、車は何か、誰を読み、何を聴き、誰の映画を見るか。うまい具合に供給されるあてがいぶちの選択肢から選んだものを消費することがすべてであるかのように思わされていた。「われ選ぶ、ゆえにわれあり」などという標語が実際にあったのだ。アブク再燃ともいわれ、似たような消費動向が生じつつある気配もある。が、当時からずっと思っていた。選択じゃない、そうじゃない、と。
いかにして抗うか。簡単だ。
消費しない。
極力撮影しない。無駄撃ちなどしない。吟味は撮影の前に行う。結果はそのまま受け容れる。
いや、違う。天秤にかけるまでもなく、そもそも比較対照の余地すらなく、
ただただ、これしかないというものを見つけることだ。
そうだ。選ぶのではない。見つけるのだ。
答えは簡単だ。だが言うは易く行うは難し。現状がその証左である。
見つかるかどうかは結局のところ運次第としかいいようがない。
できるのはただひとつ、いつか見つかると信じて探しつづけることだけだ。