承前

どれか特別な一点に絞りきれるようなものではない、とびぬけたものなどもともとなく、一連の写真全体でひとまとまりとして提示されている、と主張する向きもあろう。大量の写真から絞り込むことで提示者の思い描く何かを反映させたような提示というのは、正直なところよくわからない。けれども、複数の写真で構成された総体というものも不可能ではないかもしれない。とはいえ、写真は、いや画像でもいいが、もし社会的な審案に耐えるものであったとすれば、提示者が構成した脈絡などまったくおかまいなしに、切り離された個々の駒として流布することとなる。どうあがこうと、その現実には逆らえない。「流れ」やら「ストーリー」など世間の知ったことではない。それを受け容れず、切り売りを拒否するなら、あるいは、画像相互の関係に依存しきっていて、個別の画像をとりだしたらなんの訴求力もないものであれば、社会的に流通する見込みは乏しい。
結局のところは、ひとつの画面で目を惹くものが提示できるかどうかなのだ。そうではないというのなら、DMなりプレスリリースをどうしているかと問いたい。限られた点数の画像で訴えないことには勝負の土俵にすら上がれないのである。そうすると、勝負などしていない、とその筋の人々は言い張るんだろうがね。とはいいつつ、そういえば最初の個展でギャラリー側が用意したDMは画像のないものだった。昔の東京画廊とか佐谷画廊あたりの有力画廊が送っていたDMの形式だ。体裁として凝っているわけでもない。確か1枚も送らずに捨て、自前で用意したものを送ったのだが。画廊名だけで人が呼べた時代ならともかく、よほど有名な人物でもないかぎりあんなDMじゃ誰も来ない。能書きで呼ぼうという広報もあるわけだが、底が浅いんだから知れたもの。
ある程度の期間にわたり展示を見ていて思うのは、DMに使われているのがたいてい一番見るに耐える、ということ。メーカー系ギャラリーでやっているような、素朴ネイチャー系やら広告系の展示であってさえそうなのである。まあとるに足りないようなものに個人的な関心で惹かれることもあるけれど、それとは別に、一般的な基準を想定した場合に、展示されているなかでこれをDMに使うのが妥当だろうなというのが実際にDMやら広報用に使われていることが多い。本人の選択か、ギャラリー、あるいは広義のギャラリーの助言なのかわからないけれど。その意味でみな自己評価と売り出しかたがだいたい成功しているし、おもしろいと思うものは、だいたい誰が見ても決まってくるということでもある。自分の展示を振り返っても、自信のあるものは評判がいい。そういった評価はさほど食い違わないものである。
しかし、ということは、客引きという点ではうまくいっているとはいえ、結局のところその展示にDM以上のものはなかった、というのも確かなのである。DMのが一番まし、それ以外はどうでもよい、だったら展示もDMの1点だけでいいではないか。複数並べなきゃならないとか、どうでもいいような物語を作らなきゃならないとかいう約束事に縛られてありきたりな展示の形態を踏襲したばっかりに、余計なものを見せられて、DMでの期待以下だったとなってしまうわけだ。
つきぬけたものがないからやむなく選択する。実際にはそういうことなのである。もし、ここで、これ以上のものは金輪際得られない、ということがなしとげられたとしたら、それ以降続ける意味はなくなるだろう。それほどのものに出会えないから、ずるずると続けては自己審査しているわけだ。それにしても、選ぶまでもなく光っているもの、提示するに値することが歴然としたもの、それがあれば雑魚なんぞ吹っ飛ぶ。それに合わせなきゃならないのでつまらないものを撮影する気にならない。そうすると自然と撮影枚数が減ってくる。どの段階で選ぶか、という話だとも考えられるけれど、「写真は選択で決まる」などという主張とはだいぶ遠い。