写真器をむにゅっ

ようやく写真器づくり。墨汁はダイソーに4種類もあって迷う。工場は同じらしい。「書き心地なめらか」とある「墨液」を購入。
次に印画紙が入っていた遮光袋を探す。塩ビと遮光袋と黒紙粘土の三層構造にして遮光を万全にするという寸法。そこらにたくさん落ちているのだが、みな光沢があるものばかり。OrientalとIlfordとKodakは光沢あり。フジはゴワゴワの紙にゴムコートしてあるので使えない。どこかがもっと薄くて光沢の少ない遮光袋だったはずなのだが、出てこない。Agfaでもなさそうだ。三菱だったか。だとすればもう入手できない。
月光の号数別RCペーパーの4号が、入手しやすい中ではISOレンジが狭く、つまりコントラストが高いため、版下でデザインしていた10数年前によく使っていたのだった。DNP製のモドキとは別物の、写植時代のまともな秀英明朝をリスフィルムに焼き、印画紙の上に置いて光源を回転させて露光する、というフォトグラムの一種をやっていたのだ。光源はペンライトとか自転車用のライトをディフューズして使っていたので、コントラスト調整は多階調印画紙ではできず、号数別印画紙によって印画紙側で行う必要があった。その後印画紙のかわりにリスフィルムやグラビアフィルムを使うようになったりして技術開発が進み、まだ試していないこともいくつかあったのだが、そのさなかにデジタルに移行して果たせぬまま終わったのだった。じきにPhotoshop上で似たような効果を出せるようになり、可能なことはやりつくしてすっかり飽きてしまい、数年で文字のグラフィカルな加工という分野を放棄するに至った。暗室であんな作業をすることはもう二度とないだろうが、あれと同じ効果は出来合いのアプリケーションの操作では再現できなかった。光の屈折やら拡散やら回折やらを解析して、それをシミュレートできるような光路追跡計算プログラムを組むか、あるいは手作業で描くかしない限りは、あのマチエールはまず出せないだろう。考えてみれば、暗室で文字の細工を夢中になって試行錯誤していたあの頃も、鑑賞するための写真としてやっている今も、向かう姿勢は一緒なのかもしれない。
ともあれ、遮光袋がこんなことで必要になるとは思わず、大全紙くらいのものはとってあるがそれ以下のサイズは光沢なんぞ気にかけもせず捨てていた。入り口の付近には折れ目がついているのでキャビネでは小さすぎ。六切りとか大四つとかごそごそ出てくるので、テカってはいるがこれで行くことにする。さてこの袋はポリエチレンだろうか。Cybergraphicsに電話。NewSeagullの遮光袋に関しては、ポリエチレンにカーボンを練り込んだものとのこと。透明の基底材に着色してあるということだ。黒のアクリルとかとつくりは一緒。そこらのアクリルよりはましだろうけど、ゴム引きにくらべると遮光性能は落ちそうだ。ついでに聞いたのだが、処理済みの印画紙をこのポリ袋に入れたままでも有害ガスは発生せず、充分保存に耐えるとのこと。ただカラー印画紙の場合空気から遮断されるとシアン色素の耐久性が落ちるという。そんな話ははじめて聞いた。周知の事実だそうなのだが、ざっとネットで見てもそれらしい話は出てこない。密封は有害であり、脱酸素剤はなお悪い、フォトアクリルで空気を遮断するなどもってのほかだそうだ。まあいろんな立場の人がいるからにわかには判断できないのだが、密封して冷蔵保存なんてのも聞くし、よくわからんが要調査。ところで遮光袋はいくつかの業者からの供給を受けているらしく、別の感材メーカーが同じ遮光袋を使っているということもありうるらしい。それよりも問題は難接着性。スーパーXではポリエチレンを接着はできないが粘着力が強いのでくっつくことはくっつく。しかし力を加えれば剥がれる。クリーナー併用式の瞬間接着剤なら接着適性はあるものの、硬くて弾性が低いのでこのような柔らかい素材だと力が加わったときに破壊されそうな気がする。それに乾いていない粘土とはどう接着すればいいものやら見当もつかない。当初は塩ビと紙粘土の間に遮光シートを挟むというのり弁構造を考えていたのだが、ポリエチレンの接着を両面で行う必要もありこれは断念。とにかくまずは塩ビに紙粘土を重ねて成型し、遮光の具合に応じて場合により紙粘土側か塩ビのいずれかに遮光袋を貼りつけることも検討するという方針で決定。
そこでいざ紙粘土を開封。開けて外気に接したときから硬化が始まると思うとちょっとした踏ん切りがいる。ゴム手袋を用意。インクジェット用のロール紙の芯が長さ43cmあって太さも手頃、トイレットペーパーよりずっと厚いボール紙で頑丈。麵打ち棒に好適。ビニール袋に粘土を入れ、受け皿をつくっては墨汁をドボドボと注ぎ込み、丸めてこねるというのを数回。恐るべき兇悪な物体が出現してしまった。メタンガス吹き出す高濃度汚染河川に堆積したヘドロか、はたまたイカ墨大量摂取翌日の排泄物か。あまりに狂暴なため予定していた麵棒での打ちのばしはやめて袋の上から攪拌。はじめは粘土がちぎれても粘土で拾ってやればターミネーター2の液体金属のようにくっついたのだが、墨汁の比率が高くなるにつれてゆるくなり、袋にこびりついてしまって回収できなくなる。もうやりすぎじゃないかというくらい、推定で180mlの墨汁を半分弱注ぎ込んだところで、水分が多すぎると乾燥時にひび割れしそうなので勘弁してやる。粘土も墨汁も義務教育以来の素材。粘土をむにゅっとこねると単純に開放感を味わえる。長いこと忘れていた感覚。でも墨汁と合体させちゃうと手も部屋も汚れるしでなかなかそこまで開けっぴろげにはなりきれない。自分の排泄物を触るというのを三木成夫が芸大の講義で推奨していたらしいが、それは禁忌だからこそあえて破ることで解放されるのであって、日頃から見境なくいじり倒してたらただばっちいだけ。
そしていよいよ塩ビ上で成形。ここで麵棒を使うのだが、なかなか均等に広がらない。結局指で整えたほうがまだ平坦にできる。粘土を割ると紙の繊維が見える。そういえば牛乳パックの再生パルプで子供の彫塑をつくるひとがいた。牛乳パックを使えば原価はきわめて安くなるだろうが、手間を考えたら百均で買ったほうが安上がりだし品質も一定。だいたいそんなに牛乳飲まない。このひとには子供の像を牛乳パックでつくるという設定に意味があったわけだ。もっとも自作なんぞに時間を使わずに外注したほうがもっと安上がりという人もいるかもしれない。時間の為替レートが対通貨で高い場合にはそうなるだろう。でもうちらの時間相場は安い。というより単純に人件費が低い。のみならず自分でつくらなきゃわからない、それにこの過程自体にも意味がある。牛乳パックからの精製には見いだせないような意味が。気温のせいか袋にこびりついた粘土はみるみる固まっていく。手についた黒い汚れも、乾けばぽろぽろ落ちるのでさほど性悪ではない。
結局粘土ひとパック使って4台分塗り込める。まだやや薄いがいったん乾燥させてから必要に応じて重ねたほうがいいとの判断。ある程度の厚みがあるとなかなか乾かない。墨汁のなつかしいにおいがする。ある程度乾いてくると、反射率はかなり低いのだがところどころで繊維が反射している。鉄分の多い火山岩の岩肌にちょっと似ている。充分マットなので、この上にテカリの強い遮光袋を貼るのは避けたい。別の部位で塩ビに瞬間接着剤で遮光袋を接着。Sinarf2のカメラバッグをつくったときに使ったもの。メガネの修理にも使った。接着されたように思って上から油性塗料を塗ったら浮いてきた。何じゃこりゃ。接着されてなかったとしか考えられない。塗装してもしなくても反射が強いので、無反射布を貼る必要があるだろうか。
小学生の頃、体が固かった。立位体前屈ではマイナス10cmとかだった。成人してからも変わらず、体が固い人は頭が固いなどと言われたが、実際頭も固かった。ドグマでゴリゴリに凝り固まっていた。それは今でも同じかもしれない。だが、いつのまにか体は曲がるようになった。立位体前屈で足の数cm下まで指が伸びる。長座体前屈でもつま先が摑める。それでもまだ固いのだろうけど、この歳になってもまだ柔軟性が増す余地があるのだ。体質は変わる。幼時から歯みがきが億劫だったが、このごろ苦にならずこなせるようになった。生活習慣だって思考様式だっていくらでも変えられるはずだ。可塑性はいまなお残されている。凝り固まりから脱却して可塑性を十全に発揮させるための糸口に、この粘土製の写真器がなってくれるだろうか。