2004年にやっていた35mmの一連の写真をどうしたものか。いまだに展示のあてもないし、これだけ期間があくと関心も薄れてしまう。続けるか、なかったことにするか。せっかくこれのためにカメラとレンズを買ったのだが。
どうして行きづまったのだろう。手が加えられないブラックボックスのカメラではどんづまりだということか。でもカメラってのはたいがい「ブラックボックス」ではあるはずなのだが。
既製品のカメラをあたりまえに使っていてもつまらないので複数の画面を並べるわけなのだが、多画面構成ではどうも策に走りすぎるきらいがあるような気がする。
複数のフレームを併置するのは数十年前からあって、それ自体はとりたてて珍しい手法ではない。メディウムのありかたを顕在化させる効果があり、写真を問題にしている人々がよく行ってきたのだが、成功している例は少ない。いわゆる映像でもアハティラとかダグ・エイケンとかここ数年たいへん多いが、結局のところ、「アート系」映像にしろ鑑賞される写真にしろ、ジャンルとして疲弊してきて、ひとつの画面だけではもちこたえられなくなってきたということなのだろう。
これまで複数画面をひとつの写真として配置するのは3回の個展でやってきたが、どうしてもまとまりのよさがぬぐいきれない。駄目だとは思わないが、「写真論写真」というとうにできあがったフォーマットに体よく収まって、きわめて安定した位置に落ちついてしまいかねないのである。そしてまた、2004年の個展のようにロールフィルムの隣り合ったコマであれば併置されている理由が立つのだが、シートフィルムだと、絵柄が結びついていてさえ、ただ並べましたという風情になってしまう。そういえば、自動巻止め機構がなく、フィルム面の裏側に空けられている赤窓を通して120フィルムの裏紙に書かれている番号表示を見て巻き上げるタイプの二眼レフとか、巻止めが壊れたローライコードだかを使って、コマごとの巻き上げ量を意図的に少なくしてコマを重ならせるという手法による展示を3回くらい見たことがある。これなら、フィルム上でフレームが重複しているのだから、多フレーム構成はメディウムの次元ですとんと納得できる。数年前に銀座松坂屋裏の画材屋の上で見た、作家名も忘れてしまった展示は、220フィルム上でコマをだぶらせながら延々と時間の経過を追っていて、なかなか秀逸だった。10数年前に六本木にまだ残っていた細見画廊で見た鍾乳洞をそのように撮影した写真は、銀塩引き伸ばしだったからフィルム送り方向の長さには制約があったけれど、銀座のは220フィルムをスキャンしてつなぎ、インクジェットプリンタでロール紙出力していたので、フィルム全体が絵巻物のように長く再現されていた。そしてまた伊藤義彦の仕事は複数画面をきわめて意識的に使った稀有な成功例だと思う。しかしいずれもロールフィルムを使っており、画像内容以前に、メディウムによって画面の連続性が強固に保証されているから成立しているのだろう。田村彰英の10数年前の4x5を併置した写真群は、画面が不用意に分断されていることの奇異さにつきるものだった。一枚の画面に写し込まれていたらなんの変哲もないあたりまえの工場風景なのに、わざわざ複数の画面に分割され、しかも微妙につながっていない、というのが新鮮だったわけだ。しかしシートフィルムではそこどまり。今さら同じことはできない。多画面構成はフィルムの黒フチを出すことによって多画面であることの身元保証を得ている。雑誌やTVで35mmフィルムのパーフォレーションを偽装していくつかの静止画面を並べるいかにもな演出と大差はない。黒フチなしの画像やデジタルカメラの画像であったりすれば、併置される根拠が薄弱になり、ただの羅列にしか見えなくなってくる。そして、黒フチによってごまかされ、連なりに意味があるような錯覚を与える場合でも、黒フチをとってしまえばそれと同じことなのである。
ずっとあたためているアイディアの中に画面併置がいくつかあって、放擲するつもりはないけれども、思いついたので試してみるという域を超えるものではないような予感がしている。ある程度こなしてくると、その思いつきがどれくらいの懐具合か、やる前におおかた察しがつくようになるものだ。それはそれでしばらくは楽しめるだろうが、やはり、たったひとつの画面の単純な力強さこそが、本来なすべきことなのだと思える。