うってかわって曇り空。前日と同じ便の高速バスで福島発。車内で寝ようと思ったら朝から補助席が出る混み具合で、となりに座ったむさい野郎がさっさと寝るのはいいがしきりにこちらにもたれかかってきて、鬱陶しくてかなわない。カメラバッグの置き場所がなく、子どもをだっこするように膝の上に抱えているので、それをゴリゴリ押しつけて起きるなり向こう側に倒れるなりしてくれと促すのだが、やっこさん動じない。あの無神経さがつくづくうらやましい。いや神経がないわけはないけど。とても眠るどころではないが、風景を眺めても変化のない山また山。雨まで降ってくる。着く前にこの旅行が無駄だとわかってしまったようなもの。たまらんなあ。でもときどき晴れ間も射す。そうしたらフロントグラスにフレアのような分光された光芒が見える。ガラスに何やらフィルターが貼ってあるのでそのグレアかと思ったが、次第に色がはっきりしてくる。虹だ。
虹をまともに見たのはずいぶん久しぶりではないか。いちばん最近で覚えているのは2006年5月20日の南千住だが、当日の日誌には記述がない。気のせいだろうか。それにしても妙に低い。虹というのは円の半分くらいだったような気がするのだが、60°分くらいの円弧。そして太い。その上近くに見える。虹はおそらく太陽の虚像ではないかと思われ、実体としての対象があるわけではないので、近いも遠いもないような気がするのだが、山が近くに迫ってきてもその手前に見えるので、わりあい近くで起きているのだろう。そのために太く見えるのだろうか。でも低いのはどうか。水の粒子の光の屈折・反射角は一定のはずなのだが。太陽が低いからだろうか。でも夕方にかかる虹にももっと高いものはあるような。うーんわからない。やることもないし虹の色を覚えようと凝視。グラフィック・デザイナー田中一光には絶対色感があったという。一度見た色を記憶していて、あとからその色と同じ色のカラーチップを選んだとか。これをもって絶対音感のモデルをあてはめるのは乱暴ではないかという気がするし、そもそも色の見えは周辺の環境に依存していて、照明光の色温度が変われば同じ色でもまったく違って見えるのだから、この話は眉唾である。その違いは色感のよさやら才能やらで埋められるような溝ではない。それとも、色温度の差を勘案して色を補正して見ていたとでもいうのだろうか。計測器じゃあるまいし。色評価用光源を使用条件内で使ったとか、同一の条件で観察した場合に限った話ならばありえないとは言えないけれど。この辺の商業デザイナーはふかしまくりだろうから、そんな宣伝文句ではないかという気がする。でも色に対する鋭敏な感覚を備えてはいたのだろう。デザイン・印刷業界では「記憶色」などという言辞もあるのだが、これもいい加減な物言いで、何をもって色が記憶できるとするのか、絶対的物差しとなりうるのか、の根拠がまったくわからない。実際のところは肌色とか見慣れた色を基準にしましょうといった大雑把な話にしかなりようがないのではないか。ただ、そうでもない可能性もあるかもしれず、じっと虹を見て色を脳裏に焼きつけようとする。単波長のレーザー光や暗い中での分光と違って、虹は背後の色も混ざって見えるので色の彩度は高くない。そして、虹が実際にはいくつの色なのかを見わけようとしてみる。東北道の間ずっと出ていて、そんなこんなで時間をつぶし、11時半着。また東口へ。昨日の続き。
天総山林香院は見通しがいい。本堂が高くしてあるせいか。真後ろに郵便貯金関連のハコモノがなければなかなかなのだが。ここの山門だったと思うが、鎮座する仁王像が雄渾でなかなかのもの。その裏には風神雷神がおり、小さいが悪くない。しかしいずれもネットの奥で暗くて当分撮影対象にはならない。永福山東秀院だったと思うのだが、昌峯山林松院かもしれないが、わりあい大きな観音像のある禅寺にアショーカ・ピラーなるものがある。シャム双生児ならぬ四頭8足でそれぞれの顔が四方、おそらく東西南北を向いているネコ科の顔をした像。みなオスの特徴を持つ。なんともけったいな生き物。いや生き物かどうかよくわからないのだが。わりあい最近つくられた様子。こいつあいい。インド仏教ではよくあるものらしいが、寺で見たのははじめて。好都合なのは90°ずつ同じ造作なので、背景や光線条件の制約からかなり逃げがきく。曇天なので撮影はできないが、これを撮影するためだけにでも仙台に来る価値がある。これを発見できたのは収穫だった。それにしても同じ曹洞宗の寺が隣り合っていて大丈夫なんだろうか。他にもいろいろ。途中で小雨がぱらつきだす。仏法山東漸寺はできててぴかぴか。東北線の向こうの荒町地区は見落とす。
気象大学校にあった観測施設に似たドームが見えるので進む。榴岡公園。噴水。こんなだったか。道路沿いの入り口は違うような気がする。観測施設は合同庁舎。気象台が入っているのだろう。高すぎ。その並びにはかつて県立図書館だった公文書館。しかしここに来る道はもっと細かったはず。道が妙に新しい。榴岡天満宮は小さいが狛犬が二組。撫で牛という黒い牛も。みな味があるのだが、どれもうまくいかない。駅に向かうと先の道路が区画整理途中になっている。やはり拡幅されていたのだ。立ち退き寸前の商店がぽつりぽつりと取りのこされていて、その古ぼけた町並の残骸には確かに見覚えがある。
歩き歩いて東本願寺の別院を過ぎ眺海山仙岳院。ようやく戦災を免れた古刹にたどりつく。それから東照宮。拝殿が小さい。門のほうが立派。両側に石灯籠の立ち並ぶ参道の階段をずいぶん上ってやっと着いたら、え、これだけ、という感じ。この拍子抜け感は神社ではおなじみ。
北山などまだまだまわりきれないが徒歩では限界あり。
それはそうとFM仙台の近くにライブラリーホテルなるものがある。棚差しの本のように縦にぎゅうぎゅう詰めこまれて宿泊するとでもいうのだろうか。立錐の余地なく。カプセルホテルのカプセルが蜂か何かの卵のようにびっしり直立不動で並んでいるさまを思い描く。そして司書がいて問い合わせると引っぱりだしてきてくれる。