scale-out展のシンポジウムへ。林卓行氏の最近の関心として技術という観点が示される。テクニックなどとして貶められることの多い技術を積極的に語っていくということだが、狭義の技術だけではなく、制作物が具現化されていく実際の過程において、数限りなくある可能性の中からひとつの可能性を選択していく判断の能力総体を含みこむという。そして、そのつどの判断が適切であったかどうかという点で制作物が評価され、また解釈されるということらしい。大雑把に言えば形式を重視する立場となるが、いわゆるフォーマリズムとどこが違うかというと、自律的で完結した絵画といったものに閉ざされるのではなく、制作物をとりまく「コンテクスト」や「ネットワーク」までを、制作者が制御する技術ととらえるという点。ネットワークというのがよくわからないのだが、いわゆる「人的ネットワーク」などというだけでなく、制作や展示にまつわるもろもろの事象の連関といった意味だと理解しておく。制作上の手が動くといった技術のみならず、どこでどのような文脈で発表するかといったことがらまで、制作物や展示を構成するにあたって必要な条件設定を制作者に属する技術と考え、それを通して対象が見られていく。正確ではないかもしれないが大筋そのように理解した。
この日誌で虚空に向かって吠えるかのごとくぶつぶつと呟きつづけてきた主張と重なるではないか。この日誌の技術をめぐる記述に対してはほとんどどこからも反応がなく、ただの的はずれな繰り言なのかとついめげそうになることしばしばで、日誌に限らず生活全体が自称孤高の人となりつつあるのだが、そんなことはないとの手応えが得られたような思い。写真で自分と同様のがあったら非常に困るが、似たようなことを考えている人がいるというのは逆に心強い。そこでのオリジナリティはめざしていない。
ところが、その後強調されるのが「現場主義」を排すべきであるということ。現場主義では制作者至上主義に陥ってしまう。現場でつくっているやつがいちばん偉いんだ、という悪しき風潮に毒される。制作者は万能ではない。嘘も言う。制作者の語りから嘘を斥けて本来の技術を見るのが重要である、と。確かに「ものづくり」礼讃という風潮には気味悪さがあって、ものづくりということばを使うにも気が咎めるし、ものつくってれば無条件に肯定されるという安易な祭り上げはまずい。鑑賞対象をつくっているからといって特別な人でもなんでもない。特殊な人ではあるかもしれないが。ここで「作家」という語を一貫して忌避しているのは、この語の無反省な濫用がそうした傾向を増長させる温床となっているという思いからでもある。
ただ、ここで疑問が生じる。技術というものが制作者に属する能力である以上、その重視は制作者の特権化を招かざるをえないのではないか。制作であれ後工程であれ、当事者である制作者がたいていの場合もっとも事実関係を掌握している。提示されたものだけを見て判断するのならともかく、そこにいたる情報も解釈や評価の材料となるのであれば、やはり実際の事実関係が最も重要となり、どうしても制作者主導、現場第一になってしまうのではないか。批評は与えられた材料をえりわけて本来あったはずの過程を想像するというが、「想像」している限り事実には勝てないのではないか。
そこで問うてみる。すると、見る側と制作する側とでそれぞれに立場があり、自分は見る側から語っているとの回答。なるほど。つくり手と批評する立場には相克がある。一種の権力抗争かもしれない。この場合では、それは事実を重んじるのか解釈を中心とするかの違いとなって現れるのだろう。当事者はみずからに属する事実を重視したがるが、見る側、語る側はみずからの語りに価値を置く。そして解釈こそが主眼となり、もとになる事実は絶対ではなく、解釈に供される素材となる。
20年前『季刊リュミエール』を中心としたカイエ派映画批評では、「現場主義」という語が肯定的に使われていた。ような記憶がある。映画制作は一般に集団作業なので、監督以外にさまざまなスタッフがいる。多くの当事者から話を聞いていくことで、客観的な事実関係を引き出すことができ、それらの話の総合から映画に迫ることができる。それが現場主義であり、撮影監督や美術監督の仕事の実際に立ちいることから技術批評にもつながる。たぶん。そして山根*貞男は、現場の人の話が聞きたいのだ、自分たちはあくまで引き出し役、黒子に徹しなければならない、批評家の戯れ言なんぞ聞きたくない、などと語っていたのだが、そのわりには結局「オレがオレが」の自己主張を振りかざしていた。やはり書き手である以上透明な仲介者には徹しきれないということだ。
かつて編集をやっていた時には、つくり手がいちばん偉いのだ、としきりに主張していた。当時は自分は編集者の立場としてつくり手を尊重するのである、というポーズをとっていたのだが、実際には評論家へのルサンチマンから、彼らを貶めたくてつくり手をもちあげているに過ぎなかった。そうしたルサンチマンは編集を廃業してからだいぶ解消されたけれど、写真の現実は具体的細部にしかない、などと語り、こうして撮影過程を縷々書いていくのは、写真についての言説に対する疑問から意図的戦略的にあえて過剰にやっているのであり、その原点を忘れるべきではない。でないと上記映画評論家の裏返しになってしまう。われわれは特別な立場にいるわけではないということを銘記したほうがいい。