朝快晴だが北から西にかけ遠く雲。また千葉へ。
11時過ぎ下総中山から正中山法華経寺。参道のずっと先に寄せ木造の古い門が見え、ここはいいお寺だと一目でわかる。赤門ともいうらしいのでかつては朱塗りだったのだろうが、たいへんいい按配に枯れている。ここを過ぎると参道の両脇にいくつもの寺がある。特に見るべきはないが、これは珍しい。みな日蓮宗なのだろう。修行場もあるらしく、空手の道場みたいなかけ声が聞こえる。さらに進み境内へ。広い。朱塗りの五重塔、高さ4mくらいの青銅の大仏もある。そして祖師堂。茅葺きの古い大伽藍。比翼入母屋造りというらしいが、屋根がふたつ載っかっている。こんなのは見たことない。しばらくは改装されて一般的な入母屋造りだったようだが、近年創建当初の双頭状が復元されたという。だから300年前の建立時のまま残っているとはいいきれない。改装前の写真を見るとずいぶん背が高く豪壮だったようだが、それを低くしても元の姿に戻すというのは大英断である。最初の改造では「色々な問題から」入母屋造りに変更されたとあるが、その問題のひとつは雨漏りだったのではないかと推測される。
寺にはたいてい雨水を受ける大きな桶が左右に置いてある。あれだけの面積の屋根に降り注ぐ雨水が集中して落ちてくるのだから、軒先の水量は相当なものになる。それが参拝客にかからないよう左右に分けたりしてあるのだが、このごろはどこも無粋な雨樋がついていて興がそがれる。ともあれ、通常の切妻造りなら、雨水は2方向に流れ落ちるだけだが、ここのようなふたこぶ形状の場合、V字型の屋根の範囲内に降り注いだ水は谷底であるつけね部分にすべて流れ込むこととなる。これでは雨漏りしないわけがない。しかも急角度で接合されていて、昔の技術では防水処理も困難だったろう。現在の技術ではその問題が解決されるので、創建時の形状に戻した、ということなのかもしれない。
ところが、雨漏りは解決したろうけど、左右の屋根を太い雨樋が走っていて、屋根を中央からまっぷたつに分断している。そのまま下まで雨樋がつづく。せっかくのユニークなつくりが台なしじゃないか。復元するならもう少しやりようなかったものか。正面は常香炉があったりで引きがとれず、さほどおもしろみもないのでやるなら側面なのだが、色づかいも地味であまり惹かれない。
駅方面に戻って食事し高石神社、浄然寺、常開寺、神明寺、安房神社など。高石神社の狛犬は最近のものだがぶさいくでちょっとおもしろい。2時過ぎに法華経寺に戻り、祖師堂の西側面を確認。光があたるとだいぶ印象が違う。雨樋はなお目障りで背の高い広葉樹の影が屋根にかかっているが、やや迷って取り組むことに。撮影許可と思ったが広すぎてどこに行けばいいものやらわからない。ポラ3枚切り、ほぼ水平と正面は出せたと思う。そのままPRO160NCカットフィルム、と思ったら雲。飛行機雲か。成田へ行くと思われる飛行機が多い。西からも雲が昇ってきて日照が遮られる。ずいぶん待ち、太陽が出たところで雲は低く残るものの、このチャンスを逃したら次はないかもと思い露光。14時半頃、EV14.5、約2m。木の影がどんどん重なり、別の屋根の影もかかる。ティルトして上の余白を殺しもう1枚、と思ったら雲が広がってきて消えない。待つうちに西からの雲で太陽がすっかり隠れ断念。フレームはたぶん決まったんだがなあ。また来るさ。遠くないし。位置決めはポラで一からやりなおしだがそういうもの。来るならもっと日が高い時期の15時前で木の影がかからず、側面に正面から光があたる。ここは土日でも夕方なら人が少なそう。
それにしても広い。池上本門寺總持寺級の敷地面積。新旧さまざまなお堂がある。それになんと『立正安国論』の真筆があるという。日蓮が弾圧された際2回庇護しているらしい。なんだ鎌倉にたくさんある安国論寺とかの日蓮宗の寺より由緒があるではないか。執筆のための紙の便宜も図ったとかで他にもたくさんの日蓮の遺稿が残されており、伊東忠太設計の聖教殿に収蔵されている。ここだけなぜか古インド様式。なぜかってそりゃ伊東忠太だからだが。左右にはさすがにこれは狛犬ではなかろう、獅子像らしきものがあるが、これが水木しげる描く妖怪のような前の行政府の長のような困り切って魂抜けたような、およそやる気というものを感じさせない表情。あんなんで国宝を守れるのか大いに疑問。ぜひ撮影したいところだが立ち入れない。ここは、まぎれもなく文化財である。戦災で焼けなくてほんとによかった。都内でこれほどの仏教施設はちょっと思い浮かばない。東博は除外して。奥の院とか行かなかった。また行こう。
泰福寺も古代インド様式の寺院。築地本願寺のミニチュアにコンクリのふつうの部屋が乗ってるような感じ。伊東忠太のまねかな。