ハイドロキノンと聞いて何を思い浮かべるか。われわれとしては現像主薬である。ところが、この記事を見て愕然とした。世の中では美白用美容液の成分としてのほうがよほど名が通っているようなのだ。そこで以前にも同種の内容を読んでいるはずだが、美容液というだけで素通りしてしまうらしく見過ごしていた。検索エンジンで「ハイドロキノン」を調べると上位30件くらいはスキンケアがらみであり、写真に関する記述なんぞほとんどない。薬品一般において写真薬品というのはかくも日陰者なのである。
KodakD-76、D-72など古典的なMQ現像処方はメトールハイドロキノンを現像主薬としている。その後Ilfordが開発したフェニドンにハイドロキノンを組み合わせたPQ現像液が登場し、酸化しにくいことから、粉末溶解タイプでなく液状で販売される希釈現像液に多用され、その利便性から現在では主流となっている。ただし、Tri-Xなど古いタイプのフィルムとD-76という伝統的な組み合わせも今なお根強く用いられていて、MQ系とPQ系の二種が長らくモノクロ感材の主要な現像液であった。いずれにせよしばらく前まで現像液にハイドロキノンは欠かせないものだったのだ。ところが近年では、ハイドロキノンを使うと廃液の環境負荷が大きく毒性も強いことから、フィルム現像液ではKodakXtolPC-TEAといった処方、印画紙現像液ではコレクトールEのような製品など、アスコルビン酸(ビタミンC)をハイドロキノンの代わりに使った現像液に置き換えられつつある、というのがこれまでの理解。
アトピーを罹患している写真家から、現像液に触れるとすぐに発疹ができる、と聞いたことがある。年少の頃アトピーだったが成人してからは落ちついたという別の写真家も、現像中は必ず手袋をする、うっかり手袋が脱げて現像液に手を晒したらひどいことになった、と言っていた。web上にはハイドロキノンに関して発ガン性があるとの記述もある。Wikipediaにも「変異原性が認められている」とある。
そんな毒性の強い成分をわざわざ好きこのんで皮膚に塗布するなんて……。まるで鉛の入ったおしろいを塗って鉛害に苦しんだ前近代の女性たちではないか。化学についてはまったく不案内だし、それが極端な連想だというのは承知しているけれど、写真薬品として長いこと使ってきて、使い込むといかにも体に悪そうな臭気を発し黒っぽくドロドロの液体となり、器に黒いシミを残す薬品の主成分という位置づけが染みついているので、美容液というまったく異質な文脈にこれが出てくると途惑う。むろん現像液による汚染は酸化のためであり、美容品として使う場合と安易に同じくくりにはできない。また従来型の現像液にはハイドロキノンだけでなくさまざまな有害成分が含まれていて、着色やアトピーの人の例もハイドロキノンが原因とは限らない。だいたい濃度からしてはるかに高い。代表的なMQ印画紙現像処方であるD-72ではハイドロキノンが12%。それにしても、毒性があるのは確かなようなので、酸化対策など安全性に配慮したほうが……なんてのは余計なお世話なんだろうけど。
途惑いの原因はそこだけではない。モノクロ銀塩感材の現像とは一般に,感光したハロゲン化銀を金属銀に還元し、そのままでは見えない潜像を可視化することである。その同じ薬品が漂白作用を持ち、望ましくない色素を除去する。一方では見えないものを現出させ、他方では見えているものを消滅させる。このことがしっくりこない。顔に現像主薬を塗り込む、つまり顔を現像する、その意味とはなんだろう。いや、そんな意味の詮索やら深読みはここの流儀ではない。化学の知識があれば理解して完了する話。たぶん。