スポッティング(3) 拡大鏡

スポッティングとは筆で描くのではない。微少な点を打ってその集合で濃度を出す。筆の先端部分のみを修整対象に接触させるため、筆は寝かせず垂直に持ち、穂先を上下させて染料を置いていく。プリントであればそうすればいい。ところが、ネガの修整はそうたやすくいかない。密着や縮小プリントならともかく、引き伸ばす場合、プリントより小さい原板上の小さなキズを拡大して観察する必要がある。そうなると拡大のための光学系が修整を要する当の場所の上に乗っかってきて、道具の介在を阻む。それにまた、一般のルーペで見る場合には単眼での観察となり、筆先と修整部分との距離がつかみきれないことが想像される。両眼視であれば立体視できるので位置関係がわかりやすく、作業効率が上がると期待できる。
歯科医が使っているようなスコープ型の双眼ルーペなら、光軸を傾けた斜め方向からの観察ができ、しかもルーペと観察対象との距離が300mm程度とれるので、筆を直立させた状態で使える。しかも立体視できるので筆の間合いもとりやすい。被写界深度も深くて見やすい。そう考えてある製品のデモ機を使わせてもらい、購入直前まで考えたのだが、一般に買えるクラスの双眼ルーペは4倍から5倍程度。だがビューカメラのピント確認用に使っているケンコーの4倍のアスフェリックルーペでネガ上のホコリを見ると、どうにも拡大率が足りないように思える。拡大像を得ることが最大の目的なのであって、他がどれほど目的に合致していても、拡大率が低くてはその目的には使えない。6倍の双眼ルーペはあるし、さらに高倍率の製品もあるようだが、なにしろ医療用であり、おいそれと手が届く代物ではない。また、一般の双眼鏡では倍率が高すぎると視野がゆらゆら揺れてしまい見づらいことから、高倍率の双眼ルーペを装着した状態でも、頭部のちょっとした動きに像が反応してしまい、安定して見られないことが予想される。ただ、双眼鏡のブレは手で持つためであり、頭部に装着して使う双眼ルーペなら頭部の振動と光学系の振動が同期しているのでさほど問題にならないかもしれない。安価な単玉のヘッドルーペのなかで、2倍くらいのレンズを数枚重ねて高倍率にできると謳う製品もあるが、ハンズでヘッドルーペを試した限りでは1枚だけでも像品質が低いのに、あんなものを重ねて実用になるとは到底思えない。
そこでデスクルーペを再検討。このタイプの最大の問題は、高倍率になるほど対象からレンズ面までの距離が短くなり、7倍では35mm、10倍では25mm程度しかないこと。双眼ルーペはガリレオ式やプリズム式などで光学設計の自由度が高いので作業距離を長くとれる。一方据え置き型ルーペでは、トリプレットのような単純な光学系で、プリズムなど使わずに正立正像で観察可能にしなければならないという制約がある。そのため作業距離は倍率で決まってしまい変えられない。高倍率ほど焦点距離が短くなり、作業距離もそれにつれて短くなる。これをどうにかして使えないか。8倍から10倍のルーペの光軸を手前側に傾けて斜めから覗き、奥のルーペが浮いた部分に筆を差し入れて作業することを考える。その場合、視野の周辺部で修整箇所を観察することになるので、周辺まで収差補正が良好になされたレンズでなければならない。
ヨドバシにある写真用ルーペではもの足りず、メーカーである京葉光器に問い合わせ。この会社は写真関連や他の多くの企業にOEM製品を供給しているらしい。もう会社がないのでさしつかえないだろうが、所有しているマイネッテの15倍アクロマートルーペはここ製とのこと。同社製品の中では、ロングアイポイントタイプのアクロマティックルーペが、口径が36mmと大きくて視野が広く、諸収差の補正状況も優れているという。でもルーペにしては高価。デスク型で7倍のLON-07Sが2群4枚で定価9,600円、10倍のLON-10Sは3群5枚で定価13,600円。宙に浮かせるアームがついたスタンド型はさらに1万ほど高くなる。
世紀の変わり目前後、ハイアマチュアと呼ばれる層がポジフィルムを使うようになったのにともない、ポジチェックのための高級ルーペが続々発売された。SchneiderやRodenstockがはしりだったと思うが、ZeissNikonCanonが追随し、2万以上するようなルーペが競合していた。それらの多くはもはや生産されていないようだが、カメラメーカーのルーペの値段のかなりの部分はブランド料だったであろう。
この会社は専門メーカーであってブランド料などは乗りようもなく、それだけコストのかかった製品だと考えられる。同じ10倍でも2枚玉だと1,500円とか2,200円だったりする。このアクロマティックルーペの10倍を試してみる。たいへん明るくて鮮鋭な像を結ぶのだが、それはまともに直置きで使った時の話で、傾けて使おうとするとかなり厳しい。被写界深度が浅くて周辺では像が乱れ長時間の作業では目が疲れそう。作業距離、マクロレンズで一般に呼ばれるところのワーキングディスタンスの短さは、用途が検査・確認であればなんの問題もないのだが、道具を挟んで作業する目的に対しては致命的。いいルーペなのだが断念。
『暗室百科』平成元年6月第4版。当時でも掲載されている製品は古かった。初版は昭和55年7月。28年前。モノクロ現像をはじめた頃はずいぶん熟読したものだ。でもスポッティングに関してはなぜか記述がない。そのかわり「ポートレートネガの原板修整」という記事がある。それによると、1860年頃には写真原板またはプリント上で人物を修整する手段を講じていた記録があるという。また、ポートレイト写真の修整には、顔のホクロやシワを消すだけでなく、顔の陰の階調に手を加えて品よく見せるといったことも含まれると述べられている。印刷された前後比較を見る限りでは見事な技術であり、到底一朝一夕にまねできるものではない。その手段としては、芯だけの鉛筆をホルダに挟み、サンドペーパーでキリキリに磨いてとがらせ、ネガ上に点を打って行うという。ネガの膜面に肉乗りをよくするためのごく薄いニス引きを施して、失敗したらネガこと拭き取ればよい。ただ、ニスを引くとかえってホコリが付着するような気もするし、現代のフィルムは表面にマット処理がなされているので不要だろう。そしてかつては専用の台もあった。原板を載せるガラスが振動して簡単に点を打てる台や、逆に鉛筆の芯が振動する電気修整機もあったという。修整台には拡大鏡もついていて、はるか昔の密着原板の時代には単玉でも充分だったが、引き伸ばしを行うようになると拡大率を上げる必要がある。片目では鉛筆の先とネガとの間合いがつかみづらいので、双眼顕微鏡を使うようになり、2倍から10倍のズーム式双眼顕微鏡が適していて、固定倍率なら7倍が最良とのこと。現在直面しているのとまったく同じ問題に、30年前に悩まされた人々がいて、すでに回答が出ていたわけだ。かつて先人が同じ問題に直面し、当時の技術と製品で充分に解決している。そうした昔の格闘をなぞるかのようにたどっている。
これしかない。大がかりすぎて無理とこの選択肢は除けていたのだが、あちこち回り道した結果、これがこの問題の正しい解である、という結論に至った。そして買った。

とうとうここまで来てしまった。ただ写真をやっていただけだったのに。OlympusVM型実体顕微鏡。20年ほど前の製品。対物レンズ1倍、接眼レンズ10倍でトータル10倍。7倍から40倍くらいのズーム式がいろいろ使えていいかと思っていたのだが、高いので固定倍率にする。倍率が変えられないということは、いざ実際に使ってみて、10倍ではこの用途には低すぎたあるいは高すぎたという時困るが、そうなったら接眼レンズを交換するなりコンバータレンズを前につけるなり、やりようはある。Nikonの一部製品やVixenなどは両側に視度補正がついているが、これは左だけ。両目の視度差を矯正できればよく、両目の視度がそろってさえいれば、近視だろうが遠視だろうがフォーカシングで吸収できるので片側でも充分なのだが、両方あったほうが合わせやすい。画像ではステージの上に堀内カラーのIllumixIIIを置いてある。IllumixI型でなくてよかった。IllumixIIIは輝度ムラが大きく、IllumixIかフジカラー販売のカラーイルミネーターにすればよかったと買ってから後悔したが、IllumixIだったら乗っからなかった。IllumixIもそこら中の出版社や編プロでホコリをかぶっている。ライトボックスの上にあるのは4x5カラーネガ。これはこの個体だけの問題かもしれないが、フォーカシングのギアがややゆるめで、上から押さえるとヘッドが下がる。自動はおろか手動のロック機構もない。このクラスでは写真撮影用途などは考えられていないのだろう。低倍率なのでけっこうおおざっぱ。驚くほど高精度というものではない。ただ、がっちりしてはいる。製造業の現場で使う製品というのはだいたいそういうふうにできていると思う。精度など実用に足る水準で確保されていればよく、それより長期にわたる酷使に耐える頑丈さが要求される。イタリア製スポーツカーのような繊細なつくりではなく重機のような力強さ。頼もしい。
肝心の見えはどうなのか。このところよく使う言い回しだが次元が違う。これはくだらないアナロジーではなく、双眼で立体視できるから、単眼での平面的観察と違って実際に奥行き方向の距離が如実につかめるのである。ピントは浅い。しかし穂先が接触する部分がわかればいいので問題ない。ピントを外れても位置が把捉できる。視野の中心部と周辺部で明らかにピント位置が違う。像面湾曲が激しい。
対物レンズが出っ張るので作業距離は9cmほど。覗きながらステージ上での作業が自然な姿勢でできるような距離に設計されている。筆を直立させると、筆を短くしない限り対物レンズにぶつかる。もし必要があるならコンバージョンレンズを入れれば調節できるが、無理な姿勢で作業するくらいならこのままのほうがいいだろう。
拡大光学器械についてはもうちょっと考えてみるつもり。