思いっきり曇。京都駅から近鉄で奈良へ。と思ったが爆睡して変なところでうっかり降りてしまった。大久保駅宇治市とある。平等院は近いようだけど撮影できないし、この曇天下いまさら萬福寺を下見しても無意味なので、もう一回乗り直して再開し大和西大寺へ。駅から離れた駅ビルばかりがやたらでかくて、駅周辺にはろくな定食屋の一つもないまことにつまらん駅。でも急行が止まってこの路線では主要駅らしい。
まずさんざん迷って秋篠寺。平城駅のほうが近かった。ちゃんと調べてから行かないと。ってそんな段取よかったら今頃もっとましな境遇にいるって。南門から入ると穏やかでたいへん落ちつく境内。参拝客もいない。しかし本堂の前に小屋があってきっちり拝観料取立係が監視している。300円だったか。あの程度のしょぼい堂宇見るために金払う気なんかしない。塀の外から見ただけで充分。せっかく気分のいい境内なのに台なし。途中東照山西迎寺。どうということのない寺。西大寺の近くの電柱に「岡澤禎華写経美術館」の広告。オリジナルを「写」すことが修行となる。のみならずその写した結果が審美的価値を有する鑑賞対象として提示される。なんだか今やっている写真とそっくりだな。真言律宗総本山西大寺。見どころは敷地中央の遺構。石の土台。それだけ。昔は東大寺に並ぶ権勢を誇ったらしいのに。南大寺北大寺のように消えてないだけましなんだろう。本堂はなだらかな撫で肩で奈良様式なんだろうか。遺構に阻まれ引きがとれずどのみち無理。でも本堂内部に立ち入らない限り拝観料徴収とかみみっちいことをしないだけそこらの歴史だけはある弱小寺よりよほどお寺らしい。付属の幼稚園の送迎で終結した若奥さんがたが妙に無理して着飾っているように見える。さらに南下して菅原天満宮菅原道真の生地かつ菅原家発祥の地で別格なんだとか。特記するほどのこともない瓦屋根の神社。牛はいろいろいる。月光山西蓮寺は何もなし。喜光寺は工事中、覗いてたら住職らしい俗物丸出しのトレーナー着たタコ坊主が拝観料300円だとつっかかってくる。本堂は小さいが立派。でもあれじゃ長くはなかろうて。平城山本照寺は通過。
さらに南下し唐招提寺。思ったより狭そう。期待したような格式にも乏しい。観光客相手にしてるとどうしてもそうなっちゃうんだろうか。門から改修中の金堂が見えるが特に感激もない。ただ、拝観料600円、内部拝観はさらに100円の価値はあるんだろうと思う。見てないけど。屋外なら三脚OK、展示についても特に制限は聞いてないとのこと。
薬師寺は外から見えただけで期待させるが、門前から覗くとやはり格式に乏しい気がする。いや建物そのものというよりも、それをとりまく案内板やら種々の張り紙やら消化栓やらといったものの総体によってどこか俗っぽく流されて見える。サーヴィス業ぶり全開という風情。広告やらで流布される厳かでかしこまった様子は演出、いや捏造に近い。それは入江泰吉あたりが営々とつみあげてきた虚像だろう。では格式の高い寺とはどこだろう。南禅寺とか相国寺あたりは全体にきりっとして俗化してはいないように見えるがおもしろみにも乏しい。ただ薬師寺は期待させる。金堂の色味が唐招提寺のように地味でなく朱塗りと白とで映えるからだ。だが三脚禁止。時季を問わず全面的に不可とのこと。いかんともしがたい。惜しい。屋根には金のツノ。角というか尾っぽだけど。
まだ日があるので戻って平城宮跡朱雀門。屋根二層。コンクリかと思ったら柱は木でひびも入っている。レプリカだが朱塗りがきれいで背後に余計なものがなく、これはやっておくべき。これにも金のツノ。狭角器は工芸高校のように寄れない場合に必要になるだけで、特にさしせまってつくるまでもないと判断したのだが、あのツノを大きく出すには離れたほうがいいと予想され、狭角器が役立つかもしれない。とはいえやってみないとまったくわからない。
17時を過ぎあたりはもう暗い。平城宮跡はだだっ広い野っぱら。ここをショートカットしていく。地図には出そうな表示もないし、明かりもなく、闇雲に進むのは結構怖い。とにかく進んだら突っ切れた。法華寺は門跡尼寺。もうすっかり暗くて閉まっていたが、ここも門をくぐると同時に拝観料徴収の風情。見ずともよかろう。近くの海龍王寺は門が開いていたがしばらく林を通ると「ここから先は有料」の張り紙。ここもよかろう。行かなかったが不退寺もあんな調子ではないか。新大宮駅まで歩いて帰投。
今朝吉田寮に入ったら宿泊部屋で寮生が麻雀やっていていやな予感はしたのだが、今日も戻ったら酒盛りがはじまりそうで、今日は寝たいので脱出。で結局寝カフェ。最近はほとんどいつも徹マンらしい。吉田寮あてにしていたのにまさかそんなとは。あんまり調子に乗って歩くと足にマメができて翌日さしつかえるのでほどほどに、と思っていたら案の定できてしまった。
くだんのきつい刺激をくれた人は無理解である、とまでは言わないが、結局は好みの問題だと思う。いまやっているこれらは、射影幾何学的変換を確認して終わりではない、あるいは単なる目先の風変わりさにとどまらないものがある、なすに値するものだ、そう信じてやっていくしかない。これを居直りだとか凡庸な自己満足に過ぎないと矮小化するには早い。最終的には合理性の届かない願望に逃げ込んでいる、とも言い切れない。なぜか。つまらないものは当人が早晩飽きるのだ。遠近法関連でいえば、135の超広角レンズを使ったものは、機材はまだあるけれどもうやめてしまった。やってておもしろくないからだ。そのへんについてだけは正直である。これほど否定的で冷笑的で虚無的な人間が、のみならずこんなに不精でめんどくさがりでやる気がないにもかかわらず、今のこれらをなおもやっていて、しかもこれだけの執念を発揮しているこの事態は、何らかの手応えを得ているからだと考えないことには説明がつかない。その手応えの内容を明確に述べることはできない。だが、他人ならいざ知らずこのダメ人間が続けているということそのものが、これらの写真の価値の指標、なすに値することを証しているのではないか。「下らん」が口癖のこんな怠け者が、なおもここまではいつくばっているのだから、とるにたる何かしらがあるはずだ。
明日はどうするか。予報は晴れだが、今日もそうだった。どうにも頼りにならない。