くっそやられた。安眠できん。3時頃声のでかい奴が延々とがなっていて起こされ寝つけなくなった。おもしろいんならまだいいけどまったくつまらなくてひときわ腹が立つ。しかも蚊がいて……蚊なのか? とにかくプーンという音を出して飛んで刺すとかゆくなる虫だ。よくわからない植物が植わっているし衛生的にはおおいに難あるしで、この時期蚊がいたって不思議じゃない。1月にも刺された。蚊に刺されやすい体質なので出たらひとたまりもない。泣きっ面に蚊。宿泊を1日ずつ更新するのはどうだとか7日までだとか言われるし、やっぱり吉田寮も限界あり。それに私設図書館のFreespotからだとメールの送信ができない。STMPサーバの認証が通らないらしい。受信は可。
携帯あればね、こんな駆けずりまわらなくてすむ。携帯電話は嫌いでこれまでに2回やめて、ふだんはさほど必要を感じないけれど、旅行中だけはあれば便利なのにとしばしば思う。日常では、出がけに眼鏡と財布とカギを探し出すのに精一杯で、携帯を使っていた時期でも携帯を見つける余力がなくて携帯不携帯で出かけることがしばしばだった。それじゃ携帯じゃない。定住者には必要は乏しい。移動者にこそ必須。携帯移動端末なのだから。
寮生がしきりにゲームをやっているが何がおもしろいのかさっぱりわからない。人間が古いからだ老化。でもテレビゲームなるものは中学生のころからあったが、当時から何がおもしろいのかわからなかったし、金払ってやる気もしなかった。その後何回かやる機会があったような気もするが、覚えてないのでどうでもよかったのだろう。ヘタだったというのは覚えている。うまかったらハマったのだろうか。そもそも最初からうまい人がいるものなのか。要求されるルールの習得に長けているかどうかの差はあるにせよ。
まあ将棋とか麻雀も弱かったのだから、そういう勝負ごと全般に適性がないだけの話かもしれない。でも将棋や麻雀にのめりこむ人の心境はそれなりにわかる。特に麻雀は寮生が毎晩やっているのをそばで見てたし、簡単に否定できない複雑さ奥深さを備えた勝負ごとだというくらいの理解はある。そして、他者相手の、まさに無限というべきやりとりがあるのもうっすらわかっているつもりだ。でも、こんなディスプレイで生起するできごとに踊らされ、人の手のひらの上で遊ばされていて何が楽しいのだろう。そこではたと思いついた。「むなしい」感の有無なんじゃないか。単純なブロック型のゲームはパソコンにもまだあるし、電車で帰宅中に携帯でやっている人も多い。iPodにまで入っている。あれを制覇して達成感に浸れるか、時間を無駄にしたと考えてしまうか、その資質の差に還元できるのではないか。
とりわけこっちは「むなしさ」にとりつかれて幾星霜なので、基本的に何でも下らなく感じる。自分が存立をかけてやっていることすら、これは実はおよそ下らなくて意味のないことなんじゃないかという虚無感との闘いである。こんなことやって何になるんだ、この疑問と古くから顔なじみ。ずっとそう、写真をはじめて10数年来ずっとそうだ。してみると、ゲームを楽しめる人々は、虚無感やら徒労感などとはおよそ無縁で、何ごともポジティヴにとらえ、人生を謳歌できる、きわめて社会生活に適応性の高い個体であり、高学歴の方々がこぞってこれを行うのは世の中としてあらまほしきことなのだろう。よくわからないけどああしたゲームがアニメの戦闘シーンといったタスク達成的シチュエーションを参加型にしたものだとすれば、官僚とかエンジニアとか社会を支えている方々がそのようなアニメやゲームに心酔しているのはお国のためにはたいへん好ましいことなのかもしれない。どんなことでも、内容への評価は抜きにして、とにかく完遂することを目的として何の疑問もなく邁進でき、また攻撃意欲の高い、すばらしく前向きな就業候補生。生産性の高いポジティヴな人材養成ツールか。よくわからんけど。虚無感vs達成感。そりゃどう見たって達成感のほうがいいに決まっている。こうして虚無感な連中は世を拗ねてばかり。大昔からお定まりの役どころ。
今日も曇。さて。
京阪から近鉄に乗り継ぎ橿原神宮駅。久米寺には金に光輝く大日如来像。橿原神宮は早くも「警備本部」など正月モード。寺より神社のほうが正月準備は早い様子。これは関東でも同じ。敷地はたいへん広い。大きな池には鴨がたくさん。社殿や門の大半が赤茶色の屋根。最近屋根の葺き替え事業を立て続けに行っている最中らしい。緑青が吹いていない非酸化銅の屋根というのはあまり見た記憶がないが、すぐに緑色になるのだろう。安っぽくて落ち着かない。でも葺き替え前の桧皮葺き屋根の画像があるけどこっちのほうがどう見ても趣きがある。外拝殿は巨大。その前もひろびろ。だいたい葺き替え事業は遷宮120年記念とからしいのだが、つまりこの橿原神宮というのができたのがわずか120年前、それも京都御所の建物が空いたからここに移したということらしい。風格あるのだが特に特徴もない普通の社殿。明治期の建築で新しい。それに正面に正月仕様のでかい絵馬があって撮影には不適。奥の内拝殿は桧皮葺き。京都御所から移築したとか。さらに奥の幣殿の鰹木が見える。
駅に戻って、吉野に行こうかと考えるが、その後の予定にさしつかえるのでもう少し近場の長谷寺へ。川沿いを走る電車。伊賀を通って名古屋まで行くという。山奥の、日本の田舎。参道の川向には竹林。長谷寺は駅から1km強。拝観料500円。山門は雄壮。そこから山づたいの回廊をずっと登っていく変わった形式の拝観路。伏見神社の千本鳥居にもちょっと近い独特の様子で、ポスターにもなっているが夜に明かりを灯したらおごそかな雰囲気になりそう。本堂は清水寺と同様の、斜面に懸隔され舞台が張り出すつくり。撮影には不適。歌舞伎の緞帳様の派手な垂れ幕がかかっている。仏像は金色で大きい。撮影はともかくとして、お参りするにはなかなかおもしろいお寺だと思う。
駅に戻ったらすんでのところで電車を乗り過ごす。特急や急行ばかりが通過していき、19分も待たされる。その後も乗り換えに失敗し、写真展の最終日に行くはずがとても時間がなくてとばし、その後の約束にも大遅刻。西成へ。10数年前の出張のときに来たことがあり、もっとスラムっぽかった気がするのだが、見た範囲内ではそんなに荒れた様子ではない。ドヤ街で飲み、新世界で数件。かけうどん150円。新世界はすっかり観光地。そして西成山王に戻る。路上で寝ている人は見あたらなかった。どしゃぶりになって濡れてしまい、このへんにはネットカフェなんぞというものはなく、ここまで来たのだからと労務者向けの宿に泊まることにする。こういうところに泊るのははじめて。20代には山谷からそう遠くないところにも住んでいたが泊まったことはない。第一その必要がない。最安の部屋が900円の「ビジネスホテル」は、この背丈では泊まれる部屋がないとのこと。そんなに長身でもないのだが。いったいどれほど狭いんだ。断る方便か。もう一件では1,300円で洋室、1,100円だとそれより狭い畳敷き。ACコンセントの存在を確認してここにする。「ウエスト」というが西成から来ているのか。鉄筋4階建の最上階。寸詰まりの畳が3枚に床の間のような板敷の半畳くらいのスペース。ほぼ3畳。狭いとはいえネカフェの倍くらいの広さ。トイレとシャワーは共用。上下の布団と枕、天井の蛍光灯、エアコン、夜はイヤフォンで聞くTV、ゴミ箱、スリッパ、窓とカーテン、テーブル代わりの狭い棚に灰皿、ハンガー、部屋の中にあるのはこれで全部。すばらしくきれいというわけではないがこの値段を考えれば充分。少なくとも吉田寮よりはきれい。肉体労働者が疲れをとるための施設なので、吉田寮やネカフェよりずっと安眠できる。室温調整も任意なので暑すぎたり寒すぎたりもない。壁は薄いが夜中まで騒ぐ人もいない。宿の経営努力とは空き部屋をいかに減らして回転率を上げるかだというが、ここも2部屋しか空いていなかったようだし、かなり稼働率は高そう。だからこの値段でもやっていけるのだろう。ネカフェも夜は満室になっていることが多い。ネカフェは一泊2,000から3,000円だが、マンガやDVDなどソフト代とPCなどの備品費用、さらにフリードリンクのコストで高くなるのだろう。でも宿としては間仕切だけで布団もなく劣悪。無線LANさえあれば、安い上に完全個室でゆったり眠れるこちらのほうがずっといい。しかし無線ネットワークは近隣で1件しか来ておらず、認証式で接続しようがない。ネットはあきらめるしかなかろう。