7時半過ぎ、寝すぎて延長料金を払い寝カフェ退出。一般的には晴れの部類に入るのだろうが寝ぼけた空。昨日のように次第に晴れるかもと期待しながらうろうろするもさえないまま。円山公園ベンチでQLフィルムホルダを削る。両脇が削り足りなかった。昨日の東福寺三門も不備がありそうな気がする。安定して使えるのがはっきりわかっているPoraloid545ホルダを持ってくるべきだった。でも、もうやり直しは無理。これから10日くらいずっと特快晴になったりしない限り。
11時、本格的に雲が出てくる。ライブカムで見る奈良も雲がもくもく。こりゃ今日もダメか。鴨川の河原や高島屋の椅子で昼寝。晴れそうなんだが雲が消えない。人に会って、7日経ったんだからリセットされただろうと吉田寮へ。どうにか泊まれそう。気にしすぎだろうか。ここが一番のんびりできる。広いし時間の縛りもない。ろくにことばを交わさないとはいえ、とにかく人の顔が見える。朝起きると自分の部屋みたいな気がするんだな。なんでだろう。ずいぶん前から何度も泊まったからだろうか。まわりじゅうにゲバ文字の落書きがあるからか。寮だからか。若かった日々へのノスタルジーなのか。つどう人に自分と共通したものを感じるからか。いずれにせよ、ここならこんな漂泊暮らしでもどうにか安穏に年が越せそうだ。「世のなか安穏なれ」。1月に京都に降り立った日から見てきた、西本願寺派親鸞聖人750回大遠忌法要の標語。安穏なれ、安穏なれ。
でも放浪には向いてない。体力上も精神的にも長期の漂泊に耐える強靭さを具えていないとわかった。とはいえ定住にも向いてない。飽きる。家を買うなんてもってのほか。ついのすみかとかまっぴら御免。少なくても今まではずっと、今いるところから抜け出したい一心だった。なおも変わらない。じゃあどうすりゃいいというのか。
まあ住民票上の住居に戻ったって、所有物が嫌になるほどあるというだけで、人間関係が希薄なのは大差ない。その点ではどこにいたって同じこと、定住する必要はない。資質としては彷徨向きなのだろう。昔モナドとか言ってた人々は結局安定雇用を見つけて定住している。そんなお歴々よりはずっと移動民に近い。ただ睡眠への依存度が高く、睡眠時間と快適な睡眠条件がないとへたってしまうという体質上の脆弱さがある。だからもっとましな宿泊条件で移動できるような身分を確保しろってことだ。そういえば10年くらい前にしきりに言ってたな。目標はホームレス、恒常的生産手段を持ったホームレス。ひさびさに思い出した。この調子ではあの目標は到底果たせそうもない。