一昨日からあれこれやっていた3tをタムロンリアキャップにひっつける。部材の固定は黒パーマセルテープでぺたぺた貼っつけただけ。こんなのでも日に透かすと遮光性は万全。この調子で適当にやってても写真は写るといういい加減さに染まり切っちゃうと、世間並みのまっとうな写真術に戻ってこられなくなってしまい、これから先いい加減さの領野をうろつき続けるしかなくなるような予感も。
昼過ぎ日が射してきたので4x5でインスタントフィルムでも切ろうかと設営。Gitzo3型の平型雲台が、第1パーン棒のグリップ部分がずっと壊れたままで扱いづらい。そういえばGitzoの自由雲台があったと思い出し、探したら出てきた。92年か93年に買った品物。仰角撮影にはこれのほうがいい。SV23をもっぱら使っていた95年から99年までは、ずっとこの雲台との組み合わせで使っていたのだった。プレートに2本のネジが刺せるので2ケツで固定でき具合がいい。SV45に移行してもしばらくはこれだった。SV45をつけると大ネジではあんまり固定できない。のみならず画角が広くてベランダではうまくいかない。なので結像を覗いたのみでインスタントフィルムは使わずたたみ、とにかく現場で露光と、高円寺でタイ料理屋に寄ってから銀座へ。しかし着いたら曇天。たまに日が覗くもまったくしょぼしょぼ。で撮影は断念。
ギンイチフォトショップが消滅していた。今月1日をもって月島のスタジオショップに一本化されたとのこと。写真撮影業者用機材販売という商売が銀座の家賃負担のもとではなりたたなくなったということだろう。銀座1丁目に由来する社名の根拠はなくなってしまった。3丁目に管理部門が残っていたりはするらしいけれど。大規模小売店舗に専門店が駆逐されるという毎度おなじみの図式なわけだが、国内の半導体メーカーが壊滅状態で自動車産業も斜陽の今、メイド・イン・ジャパンの威光輝く最大の製造業種はカメラ関係だと思うのだが、それとてもかつてのようにうまみをたっぷり含んだ殿様商売ではいられず、薄利多売の価格競争に末端までさらされているようだ。ただギンイチは国産品より舶来品輸入の利ざやで稼いでいたのだろうが、多くの写真関係の輸入品の価値が相対的に低下したうえに、ネット通販全盛のこのご時世ではもはやガタガタ。気になってたぶん10年は行っていないスキヤカメラにも寄ってみるが、晴海通り沿いの馬具屋裏には影も形もなし。探したら和光の北西、清水商会の近くにあった。移転するたびに狭くなっていく。いずれにせよわれわれには縁のないカメラ屋。銀座近辺でわざわざ買い出しに行くに足る店というともはやレモン社の中古くらいだがここも問題だらけ。銀座の画廊も秋風吹きまくり。もう銀座に行く理由がほとんどなくなってしまった。
山崎博の展示2件。桜越しの太陽をカラーの8mmフィルムで撮影した90年代前半の写真をひさびさにふたたび見たが、あれはすばらしい。あとモノクロの水平線上の太陽の軌跡も。もうひとりの水平線のヒロシより断然おもしろい。インタヴューで構成された小冊子を見ると、粟津潔が持っていたという特殊なストロボだかを使って何かできないかと考えたりとか、富士ゼロックスの広報誌『Graphication』のために、コピー機にビューカメラを乗せてピントグラス上の結像をカラーコピーしたりとか、太陽を撮影するHeliographyシリーズの展開、とりわけ天体望遠鏡用の架台に16ミリシネキャメラを乗せ太陽を追尾させたりとか、制作に向かう姿勢や過程に共感できるところが多い。そのなかで「光学的な事件」という言い回しが出てくる。そうかこの撮影日誌での「光学的現象を生起させる」といった言辞はそこから来ていたのか。すっかり忘れていた。オリジナルではなかったようだ。ただ、「事件」と「現象」とは似ているようでそうでもない。
山崎博と並べるのは若干抵抗があるのだが、横須賀功光もいわゆるソラリゼーション的効果を多用したモノクロプリントを「光銀事件」と称していた。いずれにせよ彼らにとって劇的な出来事と映ったのだろう。だがわれわれは、眼前に生起するものごとを「光学的事件」とは呼べない。それはあまりに仰々しすぎる。横須賀功光は帝銀事件からの連想だろうし、山崎博の場合には、当時の報道写真への対抗意識があって、誰かが起こした事件を撮影するのではなく、みずから事件を出来させる、さらに進んでは、何もなくても撮影したところに事件が起こるのだ、という意識があったろう。彼らにしてみれば、それらは社会的な重要性のある出来事であり、少なくとも社会的重大事に仮託されるべき何ごとかであったのだろう。いずれにせよ当時の「熱い」時代背景があってこそ可能になる態度である。一方、今のわれわれにとってこれらのものごとは中立的に観察される単なる「現象」でしかない。高揚し巻き込まれていく「事件」ではないし、社会性はさまざまな意味で薄い。合理的検証過程の一部として、ただ冷静に眺められる「現象」。「事件」のように人称性もなく、ささやかに起こっては消えていく。その是非はともかく、これが今の制作工程を反映した言い回しであることは確かだろう。