巻層雲がちだが晴れには違いない。Hus*ky改とフォトレック30を初稼働。乗車して四谷を過ぎたあたりでGitzo自由雲台に止めネジがついていないことに気づく。車内を見回すが落ちていない。ネジに直径5cmくらいのノブがねじこまれたほんの小さなパーツなのだが、写真器と三脚との結節点となるかなめの部分で、これがないと写真器を固定できず、何もできないのだ。何も。この自由雲台はネジがゆるんでいると勝手に落ちてしまうつくりになっていて、露出したままブン回す三脚関連でこれは明らかに設計ミスだと思うのだが、ネジをいつも固く締めるのを心がけて対処してきた。家に忘れたまま目的地に行ってしまい、そのまま帰るということもあった気がする。でもここ数年使っていなかったので、落ちやすいことを忘れていた。
このまま乗っていてもどうしようもないので引き返し、乗車駅のホームに落ちていないかと探すがない。歩いてきた道を往復して仔細に探すも見つからない。部屋にもない。外で落としたのはたぶん前に2回あり、房総の先の海岸と中央線近くの川べりで、いずれも撮影地点に落としていて、途中で気づき戻ったら見つかったのだった。道に落として車に飛ばされたかもしれないが、それより、中央線の車内で転がして下車客に蹴り出されたのではないか。中野駅新宿駅か。もう無理だろう。雲台としては問題があるが、ネジそのものはGitzoの今のネジよりも手間をかけてつくってあって使いやすかった。15年くらい前にもう一つ買おうと注文したら型が変わっていて、当時でもすでに製造中止だった。もうこの雲台に使えるネジは製造されていないだろう。別の最近の型のを流用しようと試したがはまらなかった。小ネジではめ込めるものは持っていないかもしれない。
とぼとぼと引き返す。今日も半日無駄にしてしまった。快晴ではないにしろ、せっかくのいい天気なのに。
でもまあ、どのみち無駄なのかもしれない。10年前の最初の個展、14年前の最初のグループ展からのDMやらパンフレット、そして写真、あとに残るいろんなものを見るにつけ、みんなむくわれなかったなあ、と今感慨にふけっているように、数十年後にそれら残骸を見返して、結局は全部無駄だった、なんにもならなかった、と嘆くのかもしれない。
そんなにも無価値なのだろうか。裸の王様よろしくありがたがられているそれやこれやの写真なんかよりよほど価値があると思うのは身贔屓でしかないのだろうか。これほどの逆風、どころか暴風雨を食らうからには、やはりこちらが間違っていると考えたほうが無理がない、という常識的判断を受けいれるべきなのだろうか。
対処はかんたんだ。世間的評価など意に介しない。それだけですむ。でも、この執着だけが社会的関係をかろうじて保っているよすがなのに、これを切ってしまったら、糸の切れた凧となるのは必定。とはいえ、元祖ひきこもりたるところの「地下室の手記」あたりに少年期から毒されてきた人間には、たいへんふさわしい末路だろう。