テストの結果を見ながら、いやろくすっぽ見もせずに対策。3つめとなると要領もわかってきて的確につくれるようになる。上達するというのは、単純にうれしいことだ。弱ってる時は手先を動かすに限る。あてのない写真撮影と違って、切った貼ったさえやっていれば何かしらのものが確実にできあがっていってくれる。写真器を工作する上では、着地点がほぼはっきりしているし、検証すれば白黒迷わず決着がつく。考えあぐねずにすむのだ。手先の作業だけはいつでも支えになってくれる。やる気のでない時にも、手を動かせばどうにか打開できるんじゃないかと思えば意欲もふりしぼれる。前にも書いたけれど、技術に救われている。それぞれの写真が助けてくれるとは限らない。満足いかなければかえって打ちのめされる。今度は納得のいく写真ができるかもしれないという期待こそが助けになる。希望を与えてくれるのは、それぞれの写真よりも、来たるべき写真の可能性を託せる道具や技術のほうなのかもしれない。
そうして実現を先送りにしながら期待を鼻先にぶら下げ続けて老いていくのだろうか。
結果である写真は過去に属するもの。実績、実り。道具や感材は未来に向けてのもの。種子。昔からよく考えるのだが、この部屋が火事になったら、これまでの撮影済ネガを持ち出すだろうか、それとも撮影機材を持ち出すだろうか。火事でなく大災害だったらどうか。
コンパウンド使いたいんだが当の素材が見つからない。また買うのか。