昨日の続き。金にならない写真を長らくやっているひとの多くは写真を「水のように欲して生きている」だろう。だが他人のなした写真に対してそのように接するひとは、おそらくほとんどいない。それが、写真評論やらの多くが……な所以なのかもしれない。
ジャンルの比較になってしまって、他のジャンルはろくに知らないこともありどうにも乱暴な十把一絡げになるのだが、もう少しだけ。今はどうだか知らないが、かつて出版業界では演劇は識字率が低いとされていた。演劇が好きなひとは読み書きするほうに行かずに自分で演じるようになってしまい、演劇の本が売れないし演劇評論の質も低いという意味合いだった。演劇は熱いファンがいそうだし、一方鑑賞対象としての写真のほうは、比較的本は売れるほうだとかつてはされていて、いろいろ出ているのを見ると今でもそうだろうから、演劇と写真というジャンルを一緒くたにはできない。ただ、「水のように欲して生きている」ひとが、見る側からつくる側に転じる場合が多いという点では共通しているかもしれない。諸鑑賞対象ジャンルのなかでも、写真は今となってはもっとも参入障壁が低い部類だろうから、それだけ、見る側に「水のように欲して」いるひとが少なくなっていくのもむべなるかなと思わせる。
カマウチさんは他人の写真に対しても「水のように欲して」いるのかもしれないと感じさせる数少ない人物である。自分で写真をやっていながら、そのうえ他人の写真をここまで肯定するひとも珍しいと思う。ただ、カマウチさんは昔はともかく今は「渇いて」いるふうではない。写真に対しても文学に対しても、水のようにあたりまえに日々がぶがぶと摂取しているかに見える。実は出典元であるhebakudanさんの記述もそのように読むべきなんじゃないか、見も知らぬかたまで「渇いている」呼ばわりの巻き添えにするような強引で大仰な解釈は控えたほうがよかったのでは、とひっかかっていたのだが、大目に見てくださったようで胸をなで下ろす次第。