朝から小雨がぱらつく。
The Cloisters。行くのは4回目だが入館ははじめて。
推奨入場料は20ドルなんだが7ドルで勘弁していただく。1瞬の間がありバッヂをくれる。1ドルだったらあの間がもっと長かったのだろうか。見るからに貧乏そうだから許してくれるでしょ。ここはMetの分館だが、こないだちゃんと20ドル払ったし。英語のガイドはいるかと聞かれNo thank youと言ったら日本語のガイドをくれた。もうばればれじゃん。そういえばWhitneyの任意料金の日にも国を聞かれた。日本人観光客にだって貧乏人はいるんです。でも見たいんです。見た目は似てる中国人観光客のほうが、たいていの日本人より金持ちです。
外観はずいぶん見たのでなんとなく知っているつもりだったが、入ってみると、いやもうごめんなさいだ。こそこそしててすみません。こりゃFrick Collectionよりすごい。
周囲がFort Tryon Park、つまりトライオン砦公園で、その見晴らしのいい丘の上に立っているので、独立戦争時代に英軍の侵攻を見張るために建てられた要塞なんだと思っていた。そのわりにはManhattanの北の果てにあるので、南から来る敵に対処できないんじゃないかと思っていたのだが、そうではなく、ロックフェラー家の資金提供を受けて、美術館にするために設計施工されたとのこと。こちらの古い建物で一般的な煉瓦づくりではなく石積みなのも、中世ヨーロッパ建築の様式を模したからだろう。
その中に美術品が配置されているわけだが、想像していたのとは違って、テンペラやフレスコの宗教画はあまりなく、彫刻やタペストリーが多い。あとは石棺。それらにしても通常の美術館のようにずらりと陳列されてはおらず、修道院の各部屋のしかるべき場所に置かれていて数としては少ない。ここは建物そのものが鑑賞対象で、扉や入り口もあちこちの中世建築から集めてきたものをはめこんである。フランス革命後に打ち捨てられた中世の彫刻や建築の断片を地元の名士が私物化して所有していたのをアメリカ人彫刻家が買って集めてまわり、そのコレクションを寄付金で買い上げたのが母体になっているという。窓のステンドグラスも、そして柱もそう。cloisterとは柱廊のこと。回廊に大理石や石灰岩の柱がすらりと並んでいる。使いきれなかった柱やオーナメントなどは壁際に飾ってある。絵画などをごてごてと陳列する必要はなく、しかるべき位置に配置し、かつて教会などで果たしていた機能と意味を再現している。これはFrick Collectionと一緒。
それにしてもよくやるものだ。そこまでしてヨーロッパの文化をとりいれようとする執念にも驚くし、内部の雰囲気にも圧倒される。そこらの現代建築の美術館などとうてい太刀打ちできない、これでもかという重厚さ。
Frick Collectionもそうだが、所詮ヨーロッパから輸入した要素をつぎはぎしたコピーでしかない。ヨーロッパの実際の修道院や大聖堂からすればまがいものということになるかもしれない。だが、それを実に洗練させて組み直し、しかも地下鉄やバスで簡単に来られる場所に構え、いくばくかの金を払えば誰でも見られるようにしてあるのがさすがこの国なのだろう。
さらに驚くべきは、オリジナルの国が放擲してしまったものの価値を発見し、それを安値で買いたたいて自国に送り、高値につり上げてしまったことである。投資、あるいは投機を巨大産業に仕上げた国ならではだ。主要なコレクションがアメリカにあるという日本近世美術と同じこと。あとから原産地がうちだと主張しても遅い。フランスであれ日本であれ、自国で理解できなかった愚かさを喧伝するだけである。
Frick Collectionであれ、Dia:Beaconであれ、The Cloistersであれ、それらがなにがしかの感銘を与えるのは、やはりトポスの強さなのだと思う。その場所に固有のもの、そこでしか体験できない何か。たいていの音楽は、楽器と奏者が移動して、音響等の条件が整備されていれば、世界中どこでも味わうことができる。だが、オルガン音楽は、歴史的名器とされているようないくつかの教会のオルガンで聴こうと思ったら、その楽器が設置されているその場所でしか本来のありかたで享受することはできない。そのように、特定の場所と分かちがたく結びついた経験というものがある。それを受けるためには旅行するしかないのだが、幾多のトポスが世界中のひとびとに知らされ、また多くがそこに訪れることができるようになったのは、たかだかこの30年のことである。
アウラ」がどうとかいう議論はどうなったのか。写真と画像の流布によって、いろんな話を聞かされて激増した観光客が、「そこでしか味わえない固有の体験」を求めて、その場所をじかに見ようと殺到することになる。写真の普及が、ほかならぬそのトポスをじかに体験することの価値をつりあげ、結果として唯一的対象のありがたみをいや増した。写真の普及によって観光地は産業として大盛況となり、写真で名画に吸いよせられた客は名画を撮影して満足するが、誰かが写真を撮っている絵は特にありがたいものであると観光客は考えるらしく、撮れば撮るほど客が集まり、画像は量産され、当の絵画の価値が上昇することとなる。複製が増えれば増えるほど、唯一のものの経験はより貴重になってゆく。だが、その場所の商品化が進み観光地化するほど「アウラ」は失われていくだろう。トポスの価値の上昇とは裏腹に。もはや「アウラ」なんぞで片づくようなのどかな時代ではないのである。
また、こういうことを述べていると、堆積した記憶がどうこうとかいう陳腐きわまりない話と混同されそうだが、記憶ではない。フランスの修道院の記憶なんぞあるわけなかろう。むしろ見たことがない、まったくはじめての経験であるからこそ新鮮な感興を受けるのである。
3回見れば、さすがにもう充分かという気分になる。でも、ここにはきっとまた来られるという気がする。3時間半程度見て14時前に出て、地下鉄の駅でトルティーヤをむさぼってカロリー摂取し、本館のMetへ。バッヂでそのまま入館できる。でもこのバッヂ、青しか見たことないんだが、いつでも青なんじゃなかろうか。一度入れば別の日でも使えそうだし、Metの前に落ちてる奴を……。
こないだ追い出されて見られなかったエジプト。奥までまわったら、パネルだけじゃなくてちゃんと実物がおいてあるじゃないか。しかも途方もない数。もののよしあしはわからないけれど、コレクションが貧弱だなんてでたらめでした。ガラス張りの、エジプト政府から譲り受けたという神殿の再現は、たいへん上質で金がかかった現代美術に見える。
時間がないのでさっと見て2階へ。キプロスをざっと見てヨーロッパ。19世紀末の見落としはないかと巡回しルネサンス。The Cloistersのあとだと見えが変わる。宗教画はルネサンス期のほうがそのあとのより人物描写の様式が独特だし装飾がごつくてずっとおもしろい。でもラ・トゥールを2点見られたのはよかった。Frickにもあった。印象に残る。
そしてこないだは準備中だったスティーグリッツ・スタイケン・ストランド。やっぱりもっとも輝いていた頃のNYの写真をNYで見ると感慨ひとしお。東京で、戦前の木村伊兵衛なり名取洋之助なり桑原甲子雄なり、まあそのへんの誰でもいいんだが、を見た外国人は同様の感慨を受けるだろうか。まず無理だろう。まず、NYと違って東京に当時の面影がまるでない。次に、名取はまあ別としても、彼らは東京を主題として意識的に見てはいない。人物の背景として写っているといった程度で、都市を造形的に捉えるといった視点に欠ける。そして、スティーグリッツやストランドとそのあたりの日本の写真家を同列に置くのは……世界的知名度も……。
ストランドが1929年に撮影したスティーグリッツ、噂に聞いた4x5一眼レフカメラを手持ちで、ホルンかベースサックスでも吹くように抱えたり頭上に向けたりしている。Equivalentsシリーズのために空を撮ってるわけだ。これこそが「一眼レフ」というものだ。
解説によると、スティーグリッツはそれまでいつも三脚にもっと大判のカメラを据えて撮っていたとか。でも、一眼レフとなると4x5でも巨大だ。65歳の白髪の老人が、バカみたいにどでかいカメラをぶんまわしている。こうありたいよ。偏屈じじいでストランドとも決裂したりいろいろあったらしいけど、ただの能書き野郎じゃなくて晩年まで現役写真家として新しい試みを続けていたこのめがねのおっさんのように。
写真はいつでも混んでいる。でも、フビライ・カーンの特別展示は空いている。Metとなると中国人もいるが、モンゴルに支配されていたというのはおもしろくないのだろう。
イランはさらにがら空き。対イラン感情の反映か。
さっきは急いで見たのでもう一度スティーグリッツたちを見、1910年代の写真をまた見ているところで追い出しを食らっておとなしく帰る。