「普通の写真」関連

糸崎さんが当方の記事に反応をくださっている。いろいろ思うところはあるが、1点だけに絞る。

ぼくの場合は実のところ「器」よりも「中身」を重視しており、むしろ「中身」に合わせて「器」をしつらえている。

「中身」とは写真に再現されている個々の具体的対象を指しているとの理解に基づき話を進める。
写真の中身、つまり写真に盛られている現実の事物が第一義なのであれば、「フォトモ」やら「ツギラマ」やらといった、通常とは異なる再現形式を採用する必要はなく、矩型のフレームなり平面を用いればよいであろう。現に糸崎さんは現実の珍妙な物件を一般的な写真の体裁でストレートに撮影するという、路上観察系の流れを汲むような枠組の一連の写真も制作なさっている。それらにおいては「「中身」を重視して」いるというのは異論がない。
しかしながら、そうではなくて特殊な形式をあえてとるからには、単純におもしろい対象を主題的に扱うというだけではない、なんらかの理由があるのではないか。なお「ツギラマ」は、多くのひとがああした形式による制作を行っていて、とりたてて奇抜だとは思わないが、それでも一般的とまではいえないので、特殊な写真の形式であるとひとまず見なす。
理由というものは外側からあれこれ忖度してもほとんど意味がない。だが、結果としてどうなっているのかは外側から述べることができる。それらの写真では見た目の仕掛けが前景化しており、糸崎さんが肝心だと言い張っている、路上で鑑賞される現物の再現が二の次になってはいないか。
糸崎さんは、それぞれの現実的対象のおもしろさに応えて、それを活かすような形式をあみだしたのだ、などと反論なさるかもしれないが、制作者の意図はともかく結果は、「フォトモ」や「ツギラマ」では形式上の造形のほうが先に立ち、対象の固有性はそれに従属しているかに見える。つまり、どんな建物や風景を相手にしても、まずは「フォトモ」という様式化された器としてとらえられることとなり、個々のおもしろみは、統一された様式のあとから個別の細部として立ち現れ、よく見ると気づくといった体に思われる。
器のたとえをここでもあてはめるなら、器の色が強烈すぎるあまり、どんな飲み物をそれで飲んでも色の印象に押されてそれぞれの味がかすんでしまう、あるいは、飲み口が細くて少しずつしか飲めないために、何を飲んでも似たような味に感じられてしまう、といったところか。
さらには、「フォトモ」なり「ツギラマ」というシリーズの命名からして写真の形式に由来しており、実際のところは形式まずありきの制作態度であることがはからずも露呈しているのではないだろうか。
なお、念のために付言しておくが、上記は糸崎さんの写真を非難しているのではない。当方とは立場が逆だと糸崎さんはおっしゃるが、同じではないか、と述べているだけなので誤解なきよう。