古いものには価値があるのか

なぜ老人が敬意をもって遇されなくなったのか。儒教思想の退潮とかいろんな説明は可能だろうが、合理主義者の回答はこうだ。老人が増えたから。
かつて短命で死ぬ人間が多かった時代には、高齢まで生きのびている人間の価値が高かった。頑健さや運などさまざまな点で恵まれ、選ばれた階層であり、それだけで尊敬に値した。しかも長い経験で蓄積した知のリソースをもっており、紛争の調停や疾病の治癒法や自然現象への対処法など、下の世代が有していない多くの情報を握っていたので、おのずと重用された。
ところが今では高齢者の全人口に占める比率が上昇し、長寿者がありふれている。富や体力や遺伝的優位性なしでも、なんなく生き残れてしまう。情報アーカイヴの整備で、高齢者が保有する体験情報を超えるスパンの歴史情報にたやすくアクセス可能となり、高齢者が占有する情報の価値も下落した。
もはや老人は特別な存在ではなくなった。
こうして、高齢者は尊敬されるどころか役立たずと見なされるようになり、社会のお荷物と化した。むろんそのことの是非は措いて、傾向として述べている。
 
美術にあてはめるとどうなるか。
かつて美術品などというものはほとんど後世に残らなかった。みんな食っていくのに精一杯。たび重なる戦乱や災害で散逸消失し、よっぽど運がよくて耐久性がなければ残らない。素材が貴金属や宝石なら、その時代に合わせてつくりかえられる。そこであえて受け継がれてきた品物はよほどの宝物に違いない。旧時代の文化を今に伝える貴重なよすがでもある。こうして、長い歳月の試練を経てきたものは価値がある、と、古さが価値の尺度に転用されることとなる。近代まではそれでも充分通用した。
ところが、昨今のパブリックミュージアムや自称ミュージアムの普及によって、有象無象でも残れるようになってしまった。そこに収蔵される基準などあってないようなもの。痛々しい延命治療さながらに、ガラクタ同然の代物が後生大事に保存されている。コレクションやアーカイヴはふくらんでいくばかり。
こうなればそのいきつく末は見えすいている。高齢まで生きのびていることがその人間の資質や能力の証ではなくなったように、長い年月保管されてきた品だからといって、価値があるとは見なされなくなる。往時の情報の伝達という機能も類似品で代替可能だし、デジタルデータに検索等の利便性や保管コストで太刀打ちできない。かさばる美術品の実物など無用の長物となっていく。
かくして、図書館の本が定期的に処分されて入れ替えられていくのと同じく、いずれパブリックミュージアムのコレクションも、展示回数などを目安として廃棄されるようになるだろう。数限りなく増殖していく品物を無限に収蔵できるわけはない。コレクション自体の存続すら危ういかもしれない。古いものの価値は稀少性にこそあるのであって、古いものがあふれかえってしまったら、その価値は零落するに決まっている。
そして、長く残されてきたものには価値がある、という価値の尺度もやがて打ち捨てられるだろう。後世に残そうとする意欲も減衰し、高齢者がさげすまれ若年層がもてはやされる風潮と同様に、ますます刹那的な評価に流されてゆくだろう。authorityというものは失墜してゆく。まさしく目下進行中の事態である。
現在の美術品の価値は美術史的価値と金銭的価値によって構成されているが、美術史的価値は顧みられなくなり、金銭的価値は、長期的に上昇していく投資的価値ではなく、制作者の存命中にどこまで値を吊り上げ、高値のさなかにいかに売り抜けるか、という投機的価値のみで計られるだろう。
真の価値とはいったいなんなのか。死蔵された大量の遺物を前にして、誰もが共有可能な大価値など成立しえなくなり、個々人の評価にはてしなく分散していく、そのような時代が到来するかもしれない。