著作権的/特許的

商標についてはいろいろ調べたが、日本では写真がらみの商標があまり登録されていない。
写真がらみの登録では、感材メーカーやカメラメーカーがほとんど。大手プロラボはさすがに登録しているが、創立後ずいぶんたってから。それも社名や流通上のありふれた役務程度。ブランド価値を法的に守るという意識は希薄な様子。スタジオは少ないし、写真のインフラ部分でなく、撮影業者など写真の内容を扱う事業者、いわゆる「コンテンツクリエイター」とかいうかたがたの出願はほとんど見あたらない。
これは、写真関連業が現代の商慣行をわきまえていない旧態依然とした業界であるとか、小規模事業者ばかりで知財トラブルで揉まれたことのないような甘ちゃんばかり、ということだけではないように思える。
むろん、アートの文脈でやっている、というより「自分はアーティストである」との自負をお持ちのお歴々が、自分の業績の新しさや独自性を法的に後ろ楯してもらおうとしているようでは、いささか情けない。そういうことを考えるのは、模倣が横行し先行者利益が保証されず、さらに経済的利潤が相応に見込める方面に生息していて、しかもアートの御旗を振りかざすことがかなわぬプレイヤーであろう。商業ベースで写真を扱っているそのような業者は知財保護を意識しているだろうが、それにしても、著作権ベースでしかものを考えていないようだ。
著作権の思想に基づく領域と、特許など産業所有権の理念に支配される領域の境界に、1本の線を引いてみる。知的生産活動というものはこの線のどちらかの側に位置づけられるのではないか。
写真関連業者や、広く「コンテンツクリエイター」が、特許はもちろん、商標すら軽視しているらしいのは、著作権の側の住人だからではないだろうか。
著作権に基づく思考様式をとる写真関連業者は「何がどう写っているか」の内容を知的財産として認めさせ、そのレヴェルで独自性や新規性を競うこととなる。「何がどう写っているか」を支えている基盤は問題の埒外となる。
一方特許では、何がどう写るかは問われない。製品やサーヴィスの買い手が好きなように使うべきものとして、任意の使用者と場所と目的の幅が設定されている。極論すれば製品の使用の内実はどうでもいい問題である。何をどう写すかという地平を可能にする条件の提供こそが、特許によって保護される「知的財産」に相当する。
特許が侵害されているか否かの判断は、ある程度明確かつ客観的に判断が可能だろう。著作権の侵害はより立証が難しく、裁判は長期化し、訴訟費用もかさむ傾向があるようだ。おのずと、著作権侵害被害者は法的決着に二の足を踏むようになり、泣き寝入りが常態化する。著作権は充分に保護されず、盗まれ放題。模倣についての意識は低くなり、いかに巧妙にパクるかが腕の見せ所となる。創始者であることは尊重されず、面の皮が厚く声がでかくてコネのある奴が幅を利かす。
フェアであるかどうかという点でみれば、特許の元での競争のほうがフェアだといってさしつかえあるまい。先願者の権利は法的に保護されるのだから、社会的弱者や無名者や、ムラの価値規範からはじかれてしまった者であっても、広い市場の中で、強者と対等にはりあう機会が与えられる。
著作権的領域は、すでに確立された枠組の中での勝負となる。共通の枠組があってこそ、コンテンツの間の類似や剽窃が問題となる。一方、特許の領域とは、新たに枠組を創出する。そこでも類似や剽窃が発生するが、コンテンツではなくそれを可能にするメディウムの類似や独自性の問題なのである。
特許の側の理念からすると、写真家などというものは基本的に、内容の価値を競っているだけであって、誰かの発明の上で踊っているにすぎない。カメラやプリンタインクやあれやこれやの用紙を買ってきては使う、単なる消費者である。デジタルでやっている限り、Thomas Knollやその先駆者たちの業績を超えられない。カメラを使っている限り、カメラをつくりあげてきた綺羅星のような開発者たちの成果に依存している。ひいてはニエプスの「光学像を残す」という一大跳躍の偉大さには永遠に及ばない。特許的世界観から見れば、だが、できあがった技術を運用している写真は、みなアプリケーション、すでに整備された基盤の応用でしかないのである。
ずっとメディウムを問題とし、技術を追究してきたことで、特許的理念に親和性が高い性向になりきったようだ。著作権ベースの世間と折り合えなかったのも無理はなかろう。これでいい。なるべくしてこうなったのだ。