ある応答

ある人物の展示を見たところ感想を求められ、説明がないと意図通りに見えないかもしれず、文字情報という文脈をはぎとったら成立しないのではないか、と伝えたところ、ならば文脈に依存しない美術品は何か、どんな美術品や美術家が好きなのか、と問われた。
この問いに対する返答を引用する。

どんな美術品であれ、歴史的前提に影響され、制作者がいて、同時代的関連があって、
といったさまざまな文脈に乗っかっていると思いますので、「文脈に依存しない」、
つまり一切の文脈から離れても絶対的に成立する美術品などというものはないと思います。
もしそんなものがあったとしたら、それはもはや美術ではなくなってしまうでしょう。
 
あらゆる美術品は文脈に頼っていると思いますが、
そうはいっても文脈に依存する度合というものがあって、
とりまく脈絡を知らないとさっぱりわからない美術品もあれば、
案内や情報を与えられなくても相応に受容できるものもあるでしょう。
また、文脈によって輝くような美術品というものもあるのかもしれません。
 
しかし、そんなのも所詮は程度問題です。
あまり文脈に頼っていないから比較的まし、とかいう議論は無意味です。
 
問題は、「一切の文脈から離れても絶対的に成立する」ものが
「もはや美術ではなくなってしまう」ということそのものです。
 
一切の文脈をはぎとってしまったら、いかなる美術品であっても美術ではなくなります。
なぜなら、すべての美術品は根底的な文脈で強力に庇護されているからです。
 
それは他ならぬ「美術」という文脈です。
 
制作者本人がなんと言おうと、美術品として流通している以上は
美術の文脈に属していることを否定しようがありません。
それどころか、制作者の多くは「美術だから」という逃げ口上に安住しています。
 
歴史的背景やら属する流派やら制作者の個人史やらの文脈の上になりたつものとして
美術というジャンルがつくりあげられ、それが嵩じて、
美術品は、それが位置している文脈抜きでは理解も評価もできなくなってしまったわけです。
美術というシステム自体が、文脈のカタマリみたいなものなのですから、
特定の美術品について、文脈依存度が高いと指摘しても、
美術としては貶めたり非難していることにはなりようがないのです。
 
以上は美術品についてですが、美術家のほうも、
本人が美術家と自覚している限り、美術の文脈に依存しています。
美術に依存している、といえるかもしれません。
 
一方私はといえば、美術の文脈に依存する必要がなくなりました。
それでも、社会と関わっていくにはなんらかの文脈が必要ですが、
私のための文脈は自前で紡ぎ編みます。
 
もともと私は誰も認めませんので「好きなアーティスト」
とかいうのはとりたてて用意しておらず、お答えしようがありません。
ただし、上記がご質問に対するお答えになっているか、
あるいはお答えできない理由になっていると思います。
 
文脈についてはずいぶんいろいろ考えてきて、
『撮影日誌』でも何度も書きました。
「文脈依存」とかで検索すればいくつか引っかかると思います。
しかし、これにて結着とします。