写真はつまらない。
近年見るにたるものが絶無であるといった程度の話ではない。つまらなくない写真というものはこれまでついぞなかったし、今後も一切ない、ということを述べているのだ。
ならばつまらなくないものとは何か。
写真に再現されるべき眼前の現実である。
写真を撮影したことのある人が誰しも経験すること。感銘を受けた風景を、その感銘を残そうとして写真に残したのに、写真ではまったくあたりまえのどこにでもある風景になってしまっていた。他人とのひとときの感興が、その時の写真からは伝わってこない。
これは撮影の「腕」や経験の欠如によるものとされる。そんなことはない。いつでも写真はもとの現実より目減りしているのだ。経験を積めばいい写真が撮れるとかいう問題ではない。
すでにある現実を再現した写真は、所詮その現実の代替品である。見目麗しい人物を所有したいというとき、写真はその代用にされる。写真より本人とじかに接するほうがいいに決まっているが、それが無理なら写真で我慢するしかない。
商業用途で流布される「おしゃれな」写真は、どれも似たような「うまい」写真のフォーマットに納められ、出ては消えてのくりかえしだが、もとの現場はそんなありふれた仕上がりよりもよほどおもしろかったにちがいない。
花を撮影した写真より花自体のほうがよほどおもしろい。写真を称揚する人は、撮影者の視点が独自のものであり、写された写真は単なる対象とは別の意味をもつなどというだろう。それはその人に見る能力が欠如しているに過ぎない。ものの見方がわからないから写真を通じて教えてもらっているということだ。しかし見る能力をすでに持ち合わせている者にしてみれば、対象に向き合ってその能力を行使すれば充分だ。他人の撮影した写真よりはるかに多くの発見が期待できる。
パーティのなかで写真を撮影するというのはまったく空しい役どころである。何しろそのパーティに参加できず、ひたすら傍観者とならざるをえないのだから。写真を撮っているひまに現実はどんどん進んでしまい、撮影者は一人とりのこされる。
街を歩けばこんなにもさまざまな人が行きかい、事物が予想もつかぬ動きをし、かつて見たことのない多様な細部にあふれかえっているというのに、それを撮影した街角の写真はといえば、どれも同じにしか見えず、何ら興趣をそそるものではない。ストリートスナップ写真というフレームがとうにできあがってしまっていて、そのフレームに沿ってしか見ることができず、どんなに目新しいディテールが写しこまれていようと、「よくあるストリートスナップ」の枠組のなかで色あせてしまう。
写真を見るくらいなら現実を見たほうがいい、その写真が撮影された現場に立ちあえないかわりに写真で代用する、これが写真創成期からの主流の使われかたであるが、それに抵抗しようとして、写真を複数ならべて、直接には写っていない、撮影者の関心の所在を示すことで、もとの現実とは別の意味を写真にもたせるという習慣が発生した。しかしそれは写真本体とは別の事情であって、解釈のコードを共有しない人間には何の関係もない内輪の意味づけでしかない。
写真に再現された内容が現実に従属するという事態は、写真の再現性が価値を持つ限りにおいてのみ起こる。そこで写真の画像情報に誇張・低減・歪曲・変調などの操作を加えることで、現実には見ることができない視覚像を作りだし、現実の再現以上の機能を与えようとする傾向が起きる。しかし画像のレタッチについては30年も前にはあらかたの手法が出つくしていて、その後は内容上の発展はない。技術的ハードルが低くなったというだけに過ぎない。再現的な画像をもとにして得られる結果など幅が知れているということだ。再現性を放棄して現実とは別の価値を付与するという傾向が進むならば、再現上の忠実度は低くなり、果ては写真である必要がなくなってくる。むしろ現実に存在する対象に縛られていて、ないものは写しようがないという写真の特質が制約となり、絵画であれCGであれ、再現のくびきを離れて自由に想像力をはばたかせられる手段のほうがいいということになってくる。そこでは現実的対象を撮影した写真であることの積極的な根拠がなくなってしまう。しかしながらそのように「自由に」作られた画像の貧しいこと。現実の光景は、われわれが思い描くことのできるものよりもはるかに多様で豊かで意表をつくものであり、想像を超えたものである、ということをいつもながら痛感せざるを得ない。
なぜ写真は現実よりつまらないのか。写真とリアリティなどという文脈にすりかえてしまっては、およそありきたりの、それこそ「つまらない」話にしかならない。現実の風景を視覚的刺激の空間的付置に還元する場合、写真がもたらす視覚的刺激とさほど差はないように一見思えるが、それはわれわれが視覚的体験を理解するうえで写真をモデルにしているという転倒に由来する事態である。写真が与える視覚的経験と現実が与えるそれとで何がちがい、なぜ現実のほうが豊かな情報をもっているのか。まず思い浮かぶのは三次元的奥行きであろう。これがなければ視覚的経験から文字通り「深み」が欠落する。次に物理的フレーム。視野が制限され、情報を選別する範囲が限られるというにとどまらず、風景の見方を強制され(それがあるからこそ写真が何らかの意図の媒体として機能しているわけだが)、それ以外の見方が困難になる。それにもまして、先にも述べた現実的風景のパッケージ化さらにはパターン化を招来する。さらには明るさ。写真は階調で形成される。一般に写真の内容を定義するのは、階調、つまり空間周波数の二次元的マッピングと面質、そしてサイズである。この3要素が与えられれば写真は一意的に決定される。階調とは現実における光の明るさの度合を濃度情報に変換したものである。そこには光がない。あるのは濃いか薄いかという階調の高低と参照光の問題でしかない。現実にあって降りそそぐように与えられる光というものが、すっぽりと、根こそぎ奪われ、だまされたように色成分の量におきかわってしまっている。平面上での三次元的空間の錯視的再現をイリュージョンというなら、これは詐欺だ。透明媒体を透過光で見る場合にしても原理的には変わらない。濃度と参照光に終始する。輝度情報系のプロジェクターならどうか。降りそそぐ光はあるか。ない。輝度レンジの問題なのか。少なくとも、写真には現実のきらめくような光はないのだ。べったりとした媒体のハイエストライトと照明によって与えられる白が、画面内に認められるに過ぎない。光はこちらにむかってそそがれはしない。
こうした還元は様相の一面化を免れえない。しかし現に写真は現実を越えられないという事態は否定しようがない。写真とは元来つまらないものなのだ。10数年前から気づいていたことであり、そしてまた出発点である。現実に従属するような写真をやってもどうにもならない、そうずっと思ってきたし、これからも思いつづけるだろう。再現性に縛られる限り現実の模像でしかない。かといって、再現性を離れては写真である根拠がなくなってくる。再現という写真本来の機能を堅持しながら現実とは別のところで何ごとかを示すような写真とはいかなるものか、だ。