プリント14枚。
9年前に唱えていたこと。写真とは何か。それは画像内容や撮影方法によって規定されるものではない。写真とは最終提示媒体上での感光作用によって形成された画像のことである。従ってグラビアやオフセットのみならずダイトランスファーやコロタイプなどの版を使い転染された画像は写真ではない。インクジェットや乾式転写方式も写真ではない。レーザ露光方式のデジタルプリントは、媒体に発色現像法や銀色素漂白法の印画紙を使用している限り写真である。ただしこの定義は写真を銀塩に限定しようといった反動的な意図に由来するのではない。銀塩以外にも、鉄塩やパラジウム塩、プラチナ、さらにはアスファルトやフォトポリマー、フォトレジストによって形成された画像も写真である。フォトエッチング加工により生成されたCPUの回路パターンやDNAチップも写真である。中間工程がどうであろうと直接の関係はないし、カメラやレンズが用いられたかどうかも問題ではない。フィルムで撮影されてもインクジェットで提示されれば写真ではないし、CCDなりC-MOS、あるいは3Dアプリケーションによって作成された画像であっても印画紙に出力されれば写真と呼ばれることとなる。
この主張の意義は何だったのか。写真と写真ではないものとは物性、物理的な形成過程によって区別されるものであり、使用目的や再現された対象をめぐる主観的価値判断のほうから区別されるものではない、という前提から出発してみるというのが当時思い描いた趣旨であった。社会的に共有される価値基準や歴史的文脈、流通の必要から規定される「ジャンル」として写真をとらえるのではなく、現実的かつ実体的であり明確に定義しうる「メディウム」として写真を見るということが企図されていたのである。それゆえ定義の内実自体は実はさほど重要ではない。他の定義もさまざまに可能だろう。
この視点からすれば、芸術用途の写真など、メディウムの影響範囲のごく一部でしかないことが明らかとなる。写真とはまずもって生産技術なのであり、鉄鋼から基幹産業としての地位を奪い取った半導体産業において製造工程の中核をなす加工技術である。この産業分野における莫大な経済的スケールにくらべれば、写真家ごときが印画紙を使おうがインクジェットを使おうがものの数ではないというべきである。写真は終わりつつあるどころか今なお拡大成長路線という幻想のただなかに置かれている。写真の終焉とは、DNAチップがインクジェットに代替されるという、遠くはないがすぐではない未来においてはじめて現実的な意味を持つ議論となる。
創作やら伝達といった目的が、このメディウムの広範な機能のうちにあってきわめて矮小な使用法でしかないこと、われわれは工業用・医療用などの写真産業の売り上げのおこぼれにあずかって写真をやらせていただいているのでしかないという事実を認識することには意味がある。
この先には写真画像など明暗のパターンでしかないというさらなるシニシズムが待ち受けている。写真は媒質と階調のマッピングとサイズに規定される。これらが閾域内の精度で記述されるならば、写真の情報をすべてここに還元することが可能である。写真を記述しつくすということがこれにより完遂される。
他にもいろいろあったはずなのだが思い出せない。