カメラを展示する人々

自作カメラによる写真が展示されているかたわらに、撮影に使用されたカメラも陳列されている光景を何度か見かけた記憶がある。ピンホール写真ではその傾向が強い。自作ではないが、写真家が知人に依頼して手作りさせたピンホールカメラというのもあった。そうした場合、観客との会話の中心は写真よりもむしろカメラになっていることが多く、展示者もその事態をさほど不本意と感じているようでもなく得々とカメラについて語ったりしている。会話の内容がカメラ中心になるというのは、写真が壁面に飾られているのに対してカメラは空間の中心に据えられているという配置とも無縁ではないだろう。個展会場の大きさからして必然的にそうなっていると考えられるし、制作者本人の意図としては当然ながら写真が主役であって写真をカメラの引き立て役にするつもりはないにちがいない。にもかかわらず、結果としてカメラが写真を従えているという印象を受けることが多い。カメラが置かれるのは、現物のカメラがあったほうが実際の撮影法が理解されやすく説明の手間が省けるということもあろう。しかしそれ以上に、カメラ自体が制作物であり、しかも自分がつくったものだという意識が強く働いているのではないか。写真を制作するための中間材料として展示のついでに運びこまれているのではなく、写真と等価の展示物として明確な意図のもとに配置されているととらえるほうがすんなり納得できるような展示が多いのだ。去年の美術館でのグループ展でも大がかりな自作カメラが置かれていて、三脚のまわりの床には結界が張られていたし、図録でも番号が振られて、写真と並んで図版が入れられていた。つまり写真と同じ制作物という扱いだったのだ。まあ写真家が展示に立ちあっていないので本人の意図はわからないけれど。
カメラも全体の製作過程の一部だという意識は、自作していると理解できる。カメラからつくってしまう人というのは、ものをつくらないとどうにもいられない種類の人間なのだろうと思わせる。小さい頃から、人と遊ぶよりも、また本を読むよりも、積み木やブロックを組みたてたりほっとくとはさみで紙を切っていたような、そうした種類の人間。写真はかつてはそうした人間が居場所を見いだせる工程だったのだが、泥臭さや生身の部分はどんどんはぎとられ、知的な、洗練された、スマートな、如才のない、清潔なものになってしまった。写真がかつてもっていた手作業の野暮ったさや鈍重さや朴訥さや垢ぬけなさをとりもどすには、機材をつくるのがてっとりばやい。涙はないが血と汗は実際に流しっぱなし。何しろ生傷が絶えない。
肝心の写真をさしおいてカメラのほうが展示の主役になってしまうようでは本末転倒のように見えるが、それは展示を写真展として見るからであって、ものをつくっていく一連の過程を見せているととらえるならばカメラが主役でも一向におかしくない。写真は自作カメラの動作サンプル。それだっていいじゃないか。製作者が興味を惹く人物であれば充分になりたつだろう。でもあくまでカメラが手製であるからそれもありうるということであって、大量生産の物神的カメラやレンズの性能デモとして写真を見せられるのではたまったものではない。ところが写真専門展示場のもよおしをつぶさに見ていくとそういった手合いはかなり多い。
それが進むと既製品のカメラを展示会場に持ちこんでしまう境地に至る。特にビューカメラはしばしば見かける。目に余るのが新宿で毎年年初におこなわれていた年金生活者連中の懇親会の展示で、大四切判木製カメラなんぞをさも自慢げに据えている。展示されている写真というのが、まあ例によって名勝風景なのだがその内容はさておいて、Lambdaの200dpiで出力されたことが肉眼でわかる画像品質の低さで、しかも画像解像度が低いことからくる補間時のノイズなのか圧縮のブロックノイズなのか格子状の縞が顕著に出ていて、何のために8X10を使っているのかが写真を見る限りまったく理解できないお粗末な代物なのだが、三脚ごと倒れないようにと終始監視されながら鎮座ましましている巨大カメラを見るにつけ、ああそうなのか、結果としての写真のためではなく、重いカメラを背負って山に登るという苦行をなしとげカメラ趣味を通じて寄合の親睦を深めるためにこそでかいカメラが必要なのだ、だからカメラがそこにないとだめなんだな、とじんわり了解されてくる。あのギャラリーもメーカーの写真事業終了により消滅するだろうから、このはた迷惑な団体の展示にうっかり立ちいってしまうこともこの先もうあるまい。
世の中には自分の所有する量産品のカメラを展示しかねない輩が存在する。カメラ博物館といったものには入ったことがないが、そこではおそらくカメラが工業製品として展示されている。新宿西口のメーカーギャラリーではそのメーカー製のカメラを使った写真だけが展示を許され、しかも撮影で使用されたということになっているカメラそのものがアクリルケースに収められてうやうやしく飾られていて、自社製品の宣伝の一翼を担わされている。しかしそうした動機とは異なり、カメラを嗜好品として見せびらかしたがり、品評会くらい開いてしまいそうな勢いの種族は確実にいる。そもそもものを展示するというのはやっと手に入れた珍品秘宝を自慢し、ひいては財力を誇示するためであり、コレクターの行いだったのだろうから、彼らの願望はわれわれが自らのつくったものを人に見せようとするのよりも実は由緒正しいということができる。ものを集めるということはものをつくるということとは相いれない。そして展示するということもものをつくることとは縁遠い。