午前中曇で昼過ぎから晴れてくる。ヘイズっぽいがせっかくなので西武線。しかし途中から強風が吹き荒れ新所沢あたりの畑では砂ぼこりが舞いあがっていて視界が100mかそこらしかなく驚く。新狭山では砂嵐はないが遠方は濁っている。
線遠近法は奥行きのある世界を平面上に投影するという結像原理の根幹をめぐる問題だが、空気遠近法は要するに本物らしく見せるためのごまかしであり、絵画においてさんざん語られつくしたであろうイリュージョンのなかでも初歩的な部類に属する技術であろうから考慮に値しない、と考えてしまうのは、現実的な障壁をないものとして扱い、純化された理念的世界を仮構しようとする傾向のあらわれなのだろうか。
これほど空の透明度を日々気にしているのは、どこまでもヌケのいい風景への願望があるからで、実際に遠方の建物の細部がくっきり見えたりするとそれだけで何かを得た気分になる。それは機材愛好者がレンズの描写力にほれぼれするように自分の肉眼の結像性能に満足しているということだろうか。でもこの肉眼はマクロ専用で遠景には向かない仕様だから、眼鏡を含めての光学系と色覚細胞の性能をほめる、あるいは眼鏡による補正の按配の加減をめでるということになるのか。それとも写真で得られる分解能への評価を肉眼に適用してしまい、いわば写真のように細部のピントが出ていることに対して喜んでいるのか。しかし、レンズが本来持つ性能をわざと殺すような使い方しかしていないせいもあり、写真の引き伸ばしでは画像細部の鮮鋭さに息を呑むといった経験がほとんどなくて、意外によく出ていると思うこともあるという程度なので、実は写真で細部がよく見えるという経験をしたことがあまりなく、現実の風景に逆にあてはめるほどそうした評価になじんでいるとは思えない。そもそも技術を最重点課題に掲げているわりにはレンズの描写の違いなんてほとんど気にしないし、少なくとも現在の一般撮影用写真レンズには歴然とわかるような明瞭な差はないのだから重要な問題ではないと見なしている節がある。かつて135で拡大撮影をやっていたころには他人のプリントをも寄って見る習慣があり、細部ばかりを凝視していたものだが、それも描写を味わうというよりはあら探しに近かった。
レンズの描写のほうから現実的視覚に転用した尺度というよりは、むしろピント合わせの習慣の延長というほうがまだ近いような気がする。元来あまりはっきりしない中でのピークを見わけるというのに長けてはおらず、ピントの山が摑めたという確証が持てないので、その分カリカリと目をこらしてフォーカシングノブと格闘することになる。その時のピングラの見えを直接の対象にも期待しているのだろうか。
だがそれ以前に、ものを見る、視覚的刺戟を与えられるということ自体に原初的なよろこびが宿っているのではないか。そしてしゃんしゃんしゃんな大団円が期待できそうだがあいにくそれだけではくっきり見えるのを求めるということの説明にはならない。絵に描いたようなロマンティックな展開を採ることなく現実的に考えるならば、そうした原初的なよろこびは写真に再現されることはなく、写真を通じて共有されることもない、という現実を確認できる点でのみ、世間の凡百の写真が意味を持つ、このような冷徹な帰結に至る。
鮮鋭に見えることは認識の明証性に直結する。視覚においては二段階の輪郭線の隈どりがある。低次のレベルでは、色覚細胞においてフィルム現像時のエッジ効果やPhotoshopのアンシャープマスクのような輪郭強調作用が認められ、知覚のレベルではラスター画像をベクター画像に変換するような処理がある。意識的にものを見るということはドットの集合としての点描的な視覚野から輪郭を際だたせものをそれと識別することにはじまる。もともと明証的でくもりのない世界へのあこがれがあったのは確かで、ものをくっきり見たいという性向につながるのかもしれないが、やや無理があるような気もしなくもない。
近視であったがゆえに遠景が明瞭に見えることをことのほか尊んでいるのか。それもありそうではあるが、生活時間の大半を眼鏡着用で過ごしているのだから、ピントの合った視覚に飢えているとは言えないように思われる。いわゆる世間的にいうところの目のいい、つまり眼球の結像性能が無限遠領域に対して最適化されているというだけで、それは色覚細胞の感度や視覚神経の反応速度のよしあしとは別の問題であり、われわれのような近視眼の人間と比較して視覚の能力が勝るとか劣るなどとはそれだけではいえないはずなのだが、ともかく単純に遠方に肉眼のピントが合うという点で評価されているような人びとは、見えすぎて困るとしばしば語る。見なくていいものを見てしまうと。彼らは遠くのものの細部がくっきりと見えて喜ばしく思うことはないのだろうか。いわゆる目のいい人でなくとも一般にどうなのか。
全部ありそうでもあるが決定的でもないように思える。実のところはきっと単純な話なのだろう。だいたいそういうものなのだ。なのだがよくわからん。
千葉県に入ると俄然風景の見通しが向上するが、空気の透明度とは別に、埼玉でも通りの先まで見晴るかせて気分がよろしい。
*州ガスは見込薄。太平*洋セメントは敷地内に入らないとどうにもならないが、そこまでするほどのものかといった感じ。何しろ風が強くてあんな寄せ木細工を2分も置いたらひとたまりもなくぶれるのは間違いないので素通り。西部柳沢で東ガス下見。早朝か夕方に限られるが、これでいくとするか。