造作に特徴のある建造物を求めているのか、広く知られた対象が必要なのか。後者はいったん捨てたはずなのだが、特徴的で規模の大きい建築はおのずと有名になる。対象があらかじめ知られているものであれば、それに乗じて人の思いえがく当の対象との落差に訴えるのはきわめて利口なやり口ではある。しかしそれでは、現在巷間で写真が論じられる際のおそろしく通り一遍で生ゴミのごとく陳腐な語られかた、それはここでの使用を固く忌避している一群の語彙と、その語彙を持ちだすことであらかたの論旨がすでに見えすいてしまうような様式なのだが、と同列になってしまう。そして、何らかの提示物が周知の参照項に便乗することでなりたっている場合、それをとりまく文脈に対して依存する度合が高いということでもある。
美術なり写真での目下主流の傾向として当代の事象への追従が求められており、要は時事ネタやら何とか系やらほかの人気者がらみやら社会的文化的な風潮を反映したものが「わかりやすい」とありがたがられる。いや今に限ったことではないのかもしれず、文脈を適切にわきまえている限りは、文脈依存度が高いほど受けいれられやすく、また飽きられやすいのはいつの世も同様だろう。昔のギャグ満載の映画をあとから見てもまったく笑えず自然と忘れられていく。古本屋のジャンクかごではかつて評判になった本が投げ売りされている。ただ、たとえば『ゲルニカ』のように、重大な歴史的背景と結びつくことによって過度に評価されてしまう例もあるし、文脈依存度が高いから長持ちしないとも限らない。そもそも、長期にわたって評価されることをもって芸術の価値などとことあげするのも筋違いで、後世に残るかどうかは運となりゆきと勘違い次第だろう。ともあれ、ものをとりまく文脈を離れてそれの受容はできないという理解が一般的ではある。それに対する疑問もあるのだがそれはともかくとして、受容するにあたってそのときどきの文脈に通じている必要があるものと比較的そうではないものとがあるのは確かで、文脈依存度は一律ではないはずだ。
文脈依存度の高いファッションアイテムのごときアートなどバカにしきっていて、もともと流行モノが大嫌いなのでおりおりの文脈には背を向けてきた人間としては、人口に膾炙した観光名所といった文脈に乗っかった写真をやるわけにはいくまい。それは自分の写真を長持ちさせたいということとは別に、完結した自分の世界をつくりたいということなのだろうか。絵画の自律性とか絵画の純粋性とかいった、いわゆるモダニズム絵画の負の属性として昨今さげすまれてばかりの理念にとりつかれているのか。永続性とか絶対的な価値といったロマンティシズムか。ところが、自律性とか純粋性とか言ってみたところで、一般に写真では対象がなければどうにもならないわけで、現実の対象がズカズカと土足で入ってくるのだからひとたまりもない。「完結した自分の世界」もいいけど所詮よそさまの再現だし。そもそもあれを見て元の対象がわかるのかどうかからして怪しいのだが。でビッグ*サイトは切れてたり真ん中にホコリ、いやゴミというかキズがあって現実に介入されまくりだ。しかも全部のネガの端に妙なカブリもあるし。「どーだ再現だ」という風情でこれもいいかなという気もしてくるのだが、そんな日和っていいものか。