デジタル対アナログという不毛な議論では、20年前になされていたCD対アナログレコードと同様の話が相も変わらず繰り返されてきたが、そろそろこの諍いも下火になってきたと思っていたら、このところの各メーカーの銀塩撤退でまたぶりかえしてきたようだ。銀塩写真のほうが暖かみがあるとかいう心情的なだけの主張やら、フィルムの解像度にデジタルカメラは達していないとかいう主張やら。画質の優劣を論じる際にいまだに解像力だけを尺度にするのもどんなものか。直接データをさわったことがあるのは35mmフルサイズまでではあるが、デジタル一眼レフカメラの撮影画像を業務として扱う人間として確実に言えることは、現状ではデジタルカメラよりもカラーであれモノクロであれネガフィルムのほうが記録可能な輝度域が格段に広い。デジタルカメラは、今なお白飛び黒つぶれあたりまえである。だから、戸外で使うようなアマチュアよりも、広告写真などの産業写真用途のほうがデジタルカメラには向いている。もともと階調再現幅の狭いカラーポジフィルムに最適化された作業形態になっているので、スタジオであればライティング次第で輝度差をデジタルカメラが対応できる範囲に収めることができるからだ。しかもそうして輝度差をならした画像のほうが、階調再現の範囲がさらに狭い印刷用途にも好適なのである。産業写真でアナログ写真が淘汰されるのは当然である。そしてまた、記録可能な色域もカラーネガフィルムのほうがデジタルカメラより広い。デジタルデータではたやすく彩度が上げられるので誤解されがちなのだが、デジタルカメラの色再現域はあまり広くはない。最新の機種は知らないが、一世代前の機種では、蛍光色素を含むテキスタイルやきわめて彩度の高い発色のアクリル画材などではたやすく色が飽和したり転んでしまう。ポジフィルムでも同様の結果が予想される。そのような対象でも、ネガフィルムでは余裕を持って記録することができた。印画紙に焼くとその再現は難しいが、スキャンすることで色域の広さを確認できる。
デジタル画像には物質性がないとかいう主張がしばしばなされるがどうなのだろうか。デジタルカメラは撮像素子というデバイスにより像を得ているわけだが、それは画素欠けが起きたり、ほこりが付着したり、剥離や浸潤であっさりと御陀仏になる現実の生身のデバイスである。しかも、フィルムカメラのフィルムであれば、フィルムがカビたり傷んだりしてもその一枚を捨てればカメラはなんの問題もなく使えるが、撮像素子は製品として一体化されているので、そのような現実的瑕疵に見舞われればメーカーに出す必要があり、実際には新しく買うほうが安いという事態も頻発する。それは印画紙とディスプレイパネルやインジェットプリンタとの対比でも言える。カメラにおける二つの主要な構成要素の一方である受光体で、デジタルカメラフィルムカメラよりも特定の個体に依存する度合がずっと高いということである。その結果デジタルカメラは、製品寿命上もメーカーの利益構造上も次々と買い換えを余儀なくされる商品となる。規格は基本的に同じだから、100年前の4X5判カメラに現代のフィルムを使えば現代のクオリティの写真が得られるのに、デジタルカメラでは5年前でもかなり見劣りがする。それはデジタルカメラがデバイスという実体の条件に縛られているからにほかならない。別にデジタルカメラをおとしめる意図はなく、それによる画像は物質性がなくアナログのカメラで得られる画像とは異質であるといった主張に疑問を呈しているのである。
さらに言うなら、フィルムカメラであれば、赤外フィルムやパンクロなりオルソのモノクロフィルムを使うなど、フィルムを交換するだけでカメラとしての分光特性を手軽に変更することができるのに、デジタルカメラではそのような小回りもきかない。中大判カメラ用のデジタルバックでなければ、一般に組み込みのRGB撮像素子を廃棄まで背負っていくしかない。ついでにいうなら、一般のデジタルカメラによる白黒の画像は、疑似モノクロ、モノクロもどきでしかない。RGB撮像素子が吐いたRGB画像データから輝度成分だけを抜き出しているにすきない。本来の1チャンネルのパンクロマティックなモノクロ画像とはまったく別物である。パンクロマティックな特性を持つ撮像素子をつくることは技術上はなんの問題もないだろうし、むしろカラー撮像素子よりも簡単なはずである。もしそれが実現されるならば、モアレもなくローパスフィルターが不要であり、しかも3チャンネル分のピクセルを1チャンネルで使えて単純計算で3倍の解像度となるので、階調再現幅は別としても解像力に関してはきわめて高いモノクロ画像が得られる。しかしながらフィルムカメラのように簡単に交換できるわけではないのでモノクロ専用カメラとなるしかなく、およそ採算に合うものとはなりえない。
本筋からはずれるが、モノクロフィルムの分光感度曲線は、中央の緑の550nm近辺でいったん感度が低くなり、左右の青と赤に山があるなだらかなふたこぶラクダ型をしている。これは500nm近辺で感度が落ち込み、左右にピークがある円錐体を受光体とする人間の視覚特性に近似している。しかし疑似モノクロでは、青、緑、赤にそれぞれピークを持つ三つの山を単純に重ねて色情報を除いただけなので、三つこぶの形状になる。後処理で山を低くすることは可能だが、そうすると谷も深くなるわけで、モノクロフィルムと同様の分光感度曲線にすることはできない。しかも、カラーの色分離をよくするために今後ますます山と谷の差が大きくなり、急峻な三つこぶになっていくことが予想されるので、性能向上の結果としてますます疑似モノクロ画像はフィルムの分光感度特性とは乖離していくだろう。モノクロフィルムを用いて撮影し、スキャンデータをインクジェットで出力するという手合いも多い。この場合には上記の問題は起こらないが、カラー再現用の3ないし4チャンネルの出力機器によるモノクロもどきの画像は、モノトーンではあってもあれをモノクロームと称するのは誤りである。これまで見た限りでは単色調であることの意味が考え抜かれているものはまずなく、ただの雰囲気とか他人の模倣の域を出ない。もっとも印画紙を使ったモノクロ写真にしても、モノクロであることの必然性を納得させるものなんて滅多にないけれど。
入力がデジタルであるかアナログかはさしたる問題ではないが、出力についてもかなりどうでもいい。出力におけるデジタルとアナログの差とは、パソコンからDVI-D出力によりディスプレイに接続してデジタル信号を直接表示させるか、D-Sub出力で結んでアナログ信号で渡すか、の違いでしかない。語の意味を正確に理解すればそうならざるを得ない。詭弁だろうか。ならこういうのはどうだろう。パソコンからディスプレイを駆動すればデジタル、ビデオプロジェクターを介して投映すればアナログ。デジタルプロジェクターならデジタル。それでも不足なら、ディスプレイで見ればデジタル。TVで見ればアナログ。言いたいことはこうだ、電子的表示機器で表示された画像がデジタルで、印画紙に焼かれたものはアナログという了解がすでに現実に即さない大雑把な空論でしかないということである。DurstやSymbolicScienceが供給する銀塩デジタルプリンタにより、れっきとした銀塩感材であるところのタイプC印画紙に出力された画像はアナログなのかデジタルなのか。レタッチしたデジタルデータをフィルムにインクジェット出力し、それをネガとして、感光乳剤を自分で和紙に塗布した印画紙へ密着焼き付けしているひともいるが、その場合はどうなのか。そもそもデジタルカメラの撮像素子にしてからが出力はアナログ信号なのであり、後段のチップでA/D変換してようやくデジタル信号となる。
このようにデジタルアナログとわけることにはほとんど意味がなくなっている。とはいえ、デジタルの要素がまったくない、純然たるアナログであるような伝統的な銀塩写真の製品は、そのような折衷の分野にも入りこめないので確実に減ってはいくに違いない。充分な配慮を持って処理されたモノクロバライタ印画紙の品位は否定できないものがあるし、また画像品質とは別に2004年の個展のようなことは35mmフィルムがポピュラーであるうちにやっておく必要があるので、できる限り延命してほしいとは思う。執着もある。しかしなくなってしまったらそれまでなのであり、なすべきことを可能なうちに淡々となすだけだ。声高にデジタルに対するアナログの優位を叫んだりするのはどうかと思うし、それを叩いているような人びとにしてもほっとけばいいではないか。なぜこんなどうでもいいようなことで諍いが起きるのか。デジタル側にせよアナログ側にせよ、カメラや技術は自らの手の延長である。たとえば絵画で何十年にもわたる訓練によって獲得された筆触やストロークやナイフや重ね合わせの技術は画家自身に属している、いやそうではないという思弁的深読みもあろうが現実的にとらえればそのように見るのが妥当だろう。写真において、そうした手業が外部化されてかたちを与えられたものがカメラや写真感材であるということができる。機材だけでなく写真の撮影から後処理に至る工程全体が、それまで培ってきた能力や実績の意義を下支えする根拠となっている。自分がやっていることに手応えを感じているのなら、つくっているものがよりどころになるから、つくるための手段をあしざまに言われてもどうということもない。しかし、自分の写真なりに確信が持てないとき、往々にして機材や技術に自らの存立基盤までも託すことになる。そうした人びとにとって、自らが寄りかかっている技術体系を否定されることは、自分の経験ひいては人格が否定されたも同然であるから、度を越した反応を示すわけだ。ある種の映画愛好者やサブカル系の連中、何も生み出していないという後ろめたさを映画や何かに関する情報や忠誠心で穴埋めしているような人びとが、自らの崇拝する対象をけなされると烈火のごとく怒り狂うのと似ている。その点で伝統的な側も「革新」の側も同じ穴のムジナである。DTP普及期の攻防やらMac信奉者とWindows側の争いでも同じ構図があった。かつて見るべき仕事をなした人物が敵陣を偏狭な排外的ナショナリストのように罵るさまは、はたから見ていて切ないものがある。いじめやすい対象を攻撃して自らの嗜虐性を満足させ、ルサンチマンを解消しているという点では街宣車ナショナリストと根は同じなのかもしれない。