写真というメディウムの幅の広さを実感しようと思ったら、レンタル暗室というのはいい場所だ。免許センターや病院のように、日頃接点のない層と有無を言わさず一緒にさせられ、自分が閉ざされた縄張りの中で動いているだけだということを実感させてくれる。まあ、あそこの場合、免許センターと言うよりコンビニかドンキとでも言ったほうが近いのかもしれないが。ヨドバシや中古カメラ屋だとまだ行きつけている分自分の縄張りなのだが、レンタル暗室はスタジオやブランドショップやネイルサロンみたいなもので、敵地に孤立無援で立たされた心境になる。プロラボであれば、少なくともカラーフィルムの処理を外注している層に限るならばさらに偏りなく種々の方面の写真関係者に遭遇できるが、長時間隣り合わせになったりプロセッサに先に入ろうと争ったり譲り合ったりというような接触の機会で比較すれば、レンタル暗室には及ばない。
これはメディウムとジャンルの問題である。ここで写真の「メディウム」と呼んでいるのは写真を支える工業的・技術的・実体的な基盤のことだが、その階層においては彼らと共通している。ほとんどブローニーばかりでビューカメラの使い手は少ないとはいえ、引き伸ばし機を使ってネガプリントを焼いているという点では決して遠くはない。にもかかわらず、社会的・文化的・歴史的に写真の内容を決定づける「ジャンル」の相においてはまったく住み処を異にする。媒体としては同じ形状のCDに収められている産業ロックと現代音楽、雑誌という意味では共通しているファッション雑誌と政治団体機関誌くらいの開きがある。
ところが、他のジャンルにたてつくのはいいのだが、それに代わる身元引受先が確保してあるわけではない。どこを見渡してみても帰属する場所がない。今やっていることの社会的な意義を保証してくれるような受け皿が用意されている心当たりはほとんどない。これはしんどい。美術や写真のさまざまなサブジャンルのひとたちが、それぞれにつるむ居場所を用意している中で、どこに対しても違和感があったために、あえて居場所がないというありかたを選んだのであって、自分から引きうけた事態ではあるのだけれども。依存できるジャンルがないがゆえに、メディウムを拠点に転化できないかと格闘している、今やっていることをそう見てもいいのかもしれない。単に機材に溺れるだけなのはとうにジャンルとして確立しているが、機材を目的とするのではなく、メディウム全体を最終的には一個の対象とするような試み。ある人物に「写真が好きな人」などとひとくくりにされたことがあるが、確認もせずによくそんなことが堂々と書けたものだと思う。彼にしてみれば写真をやっている人間はなんの疑いもなく写真好きへと直結できるらしい。浅はかな文筆業者の思いこみとは裏腹に、写真には昔から嫌悪感を抱いている。写真史上の多くの写真には憎悪すら覚える。ジャンルとしての写真への根深い敵意とメディウムとしての写真への愛着、ここにそもそもの出発点がある。
できることならジャンルなどとは無縁でいたい。しかし、社会的になんらかの活動をしようとすると、ジャンルと無縁ではいられない。画廊で個展をするだけで、その画廊が美術業界ないし写真展示業界内で属するジャンルを選んでいることになる。ネットで出したところで、他人に見てもらうにはリンクの種を撒くなり検索エンジンのカテゴリーに登録される必要があり、いずれにしてもすでに敷かれているジャンルの枠に組みこまれることになる。出版しかり、公募展しかり。つくったものを世に晒そうとするならば、なんらかの社会的文脈に絡めとられずにいることはできない。既存のジャンルが嫌なら新たにジャンルをつくるしかないが、それもたやすくできることではない。展示スペースを新規に開いたところで、存続させようとすればどこかのジャンルによりかからざるを得ない。そういうわけで現代美術のひさしを借りてどうにかしのいでいるありさま。そうするとオリジナリティやら新しさという現代美術の運動原理に従わざるをえなくなる。写真というジャンルのなかで現代美術とは対抗的な保守系サブジャンルで現状優勢であるらしい、文学的で情緒的でつかみどころのない曖昧模糊とした価値基準よりはましだとはいえ、疑問は大いにある。自らがジャンルになろうとするのは困難な道だ。ジャンルを構築するのは無理でも、メディウムをジャンルに持っていくことができさえすれば、狭くはあっても居場所を見いだせるような気がするのだが。