この歳になってもいまだによくわからないのだが、はたして自分は頭がいい部類なのか悪いほうなのか。世の中で自分の知能程度はどのあたりに位置するのか。たぶん幼時から長いこと気にしてきたに違いなく、それだけ「頭のよさ」という価値基準にとらわれ続けてきたのだろう。ただ、なんらかの尺度による知能の序列はいくらでも用意されているのでそこで迷うわけではない。それよりも、世の中においてどのあたりの知能の人間としてみずからを位置づけ、どのようにふるまい、遇されるべきなのかという実際の頃合を今なお測りかねているということなのだろう。バカなほうではないという矜持があるから、おのがバカさ加減を突きつけられるといたたまれない気分になるし、かねてから思想方面では知的能力の歴然たる差に絶え間なく直面させられるなど、自分はバカだという敗北感にうちひしがれる局面がある一方で、こんなおつむの足りない人たちとは話が通じないという孤独感にさらされる場面も多々ある。いったいどっちが正しいのか。自分の知的能力の度合が評定できていないなかで、バカではないという自負に支えられながらも裏腹の劣等感にさいなまれるという典型的な鬱屈の仕組を長らく抱え込んできたわけだ。
IQというのはひとつの指標ではある。中学の時のIQのテストでは図形認識や空間把握を問うセクションで問題を全部回答してしまって時間をもてあました記憶があり、しかしたぶん記憶力が足をひっぱったと思うのだが、成績は教えてもらえなかったもののそこそこは行ったと教えられた。試しに今になってやってみるとIQはそう悪くないらしいのでちょっと安心するのだが、よく考えるとたいした数値ではない。せいぜいクラスで1、2番程度、いや3、4番なのかもしれないが、いずれにせよ全国で1、2位とか10年にひとりとかいう水準とは程遠いのだから、さして得意になるほどの実力でもない。
昔からうすうす感じてはいたが、突きぬけた頭のいい人間、途方もない奴というのはおおぜいいる、ということがネットでいやというほど確認できるようになった。出版なり放送なりでも切れる人間は確認できたが、そのような場所でお墨付きを与えられるのではない市井の人物の中に、逆立ちしてもかなわない人が時として存在する。官僚とか法曹には恐るべき人物がいるし、科学系も数段うわてだし、サブカルのように層が厚いジャンルもすさまじい。自分がいかに頭が悪くて、そのうえものを知らないかということを思い知らされるばかりだ。IQからしてまったく違う、打てば響くような頭のよさを如実に感じる。もうこれはどうあがいてもかなわないということが文章を読めば察せられる。それがわかる程度の能力は自分にも与えられている。
ただここでふと気づくのは、IQというのは知能の瞬発力を計るテストであるということ。基本的には時間内にどの程度の量を正答できるかという課題だったと思うので、どれだけ早く論理的な思考を働かせたり直観的に洞察できたり記憶できるかが求められているのだろう。これは社会が求めるものを反映していると思われる。瞬時に計算を働かせられる人間が、対面的な交渉ごとでは圧倒的な強みを持つ。頭の回転が速いという言い回しに示されるように、とにかく速度第一、当意即妙で電光石火、打てば響くような反射神経的能力がよしとされているのである。
スポーツでもそうだ。花形というべき球技を中心とするゲーム型のスポーツでは敏捷さと瞬時の判断力がものをいう。それがなんの疑いもなく推奨されるのが体育という教育環境だった。そこでは登山のように重い荷物を背負って長距離を淡々と移動するような運動能力や心肺機能を評価する基準は用意されていない。そのような適性を持っているが機敏な反応能力に長じていない人間は低評価に甘んじることとなる。
知的能力においても、瞬発力にはとぼしいが耐久性は備えているという属性の人もいるだろう。目から鼻に抜けるような冴えはないけれど、地道な思考の持続力では勝負できるかもしれない、という人間が写真をやろうとしたら、当然ながら反応速度を問われるスナップではなく、三脚を据えて魯鈍な草食動物よろしくのんびり撮影するスタイルとなるだろう。そういう人間は、鈍重である分、怜悧な思考力を持つ人間よりも長い時間を与えられなければ太刀打ちできないのだ。現に草食動物は同程度の体躯の肉食動物より概して平均寿命が長い。さして頭がよくない以上、反応速度が遅い以上、とにかく生きのびなければならない。これで早世してしまったらどうにもつりあわない。鈍くてとりかかるのも遅くものごとを進めるのにいちいち時間がかかっている分だけ多くの時間を確保しないことには何ごともなせずに終わってしまうわけだ。長生きしなければならない。生き続けなければならない。当然、夭折する天才のようにみずからのリソースを端から息せき切って使い果たすような派手ななりゆきにも無縁であるので、消耗もせず老化も遅い。活躍などからは程遠いぶん睡眠も休養もとり放題だし、気の利いた能力にも恵まれていないので過労もせず、稼ぎもないから喫煙や過度の飲酒にふけるような経済的余裕もない。さらに金のかかる車などにも乗らずによく歩く。ぜいたくな高脂質の外食などできるわけもなくおのずと植物中心の質素な食事となる。要するに早死にする理由がない。
IQというのは年齢と不可分の概念だが、20歳を超えると年齢に応じて底上げされる。つまり加齢によって知能は下がるという考え方が根底にある。しかしながら現実には年長者と議論をして言い負かされ、相手の洞察力や論理構築力に舌を巻くということは往々にしてあるし、加齢によって知的能力が衰えるとはいえないのは経験に照らせば明らかであろう。記憶力や演算力は低下するにしても、綜合的な判断力はむしろ向上していくというように一般にも考えられている。
写真家は短命だ。いやむろん長生きの人は多いのだが、写真家としての寿命はつき、抜け殻として老いさらばえていくか、かつての威光、というより残光にすがって老残をさらすお歴々が大半である。写真に限らず現代の創作者は概してそうなのかもしれないが、写真、鑑賞対象となるような写真はとりわけ様式の確立も消耗も迅速におこなわれがちなだけに、若くして涸れ果てやすいという傾向があるだろう。つねに新しくあろうとすること、新機軸を供給し続けようとすること、つまり「持続」ではいずれ無理が生じる。やみくもに続けようとするのではなく、とにかく残っていさえすればいい。上記のごとく、突きぬけた知能や才能のない人間が何ごとかをなすために長生きしなければならないのと同時に、また反対に、生き残るために写真をやっていく必要がある。今や写真を支えにしてどうにか精神の平衡を保っているようなありさまだが、ここでみずからの写真の源泉、それは発想庫だけではなく、意欲や執着やある種の生命力といったものだが、それを涸らしたなら、もはや生存もおぼつかなくなってしまう。アイディア勝負で続けていこうとしてもいずれ枯渇するのは、先人たちの行く末を見ていれば容易に想像がつく。加齢にともなって新しいものを編み出すような能力が失われていくことには逆らえない。そこで生きのびるためには、なんらかの思索的要素によってつなげていく以外にないのではないか。ただ延々とながながと、またくどくどと考えていくことにあえかな可能性が存するのではないか。