光を読む、露出を読む、といった言いまわしは許容されるのか。光とは読むことのできる対象なのか。この場合の「読む」とは、結果が出るのに先んじてその具合を予測する、ということを意味する。時間が経過して太陽が動いていったらどのように状態が変化するか、あるいは、この光線状態で撮影すれば実際にプリントした段階でどのような描写となるか、いずれにせよある条件から得られる結果を先取りして判断することをいう。特定の目的下で、ある初期条件から因果関係によって帰結する結果はひとつのみであり、結果が2つとか3つとかそれ以上とかいう事態は、可能世界論とか並行世界とかいう議論を弄ぶならともかく、現実上はありえない。そうした結果を前もって把握することが「読む」ことであり、そこには厳然たる「正解」が控えている。予測された答えがいずれ行きつく結末とは、正しかったか正しくなかったかのいずれかしかない。導かれた予測が正解であったならば、そこにいたる推論や経験の蓄積も正しかったと確認される。
「写真を読む」という言辞、あるいは「メディア・リテラシー」などと喧伝される主張もそうかもしれないが、そこにいかがわしさがつきまとうのは、対象の中に読まれるべき答えが埋め込まれているかのように思わされるからではないだろうか。「読む」というのは一般に「読み取られる」ための内容が対象にすでにそなわっていると見なすことで開始される。新たに意味を対象に付与することは「読む」とは呼ばれない。「写真を読む」の根底に潜んでいるのは、写真を任意の角度から解釈するという鑑賞者・受容者としての態度ではなく、あらかじめ写真の中に唯一無二の正答が隠されていてそれを謎解きのように掘り起こすのであり、行きつくべき答えはひとつである、といった探偵型・捜査者の態度といいうる。それは必然的にその正答以外の見方を排除することにつながりかねない。そして「素人目にはわからないだろうが専門家筋にはこれこれの裏が読み取れる」というようにオーセンティシティの根拠として振りかざされることに対して危惧を覚える。むろんそうした謎なりメッセージなり仕掛が明確かつ意図的に組みこまれているような写真もあるだろうし、条件を限ればそのような態度も有効かもしれない。しかしそれがいつでもどんな写真にも通用するわけがない。そのようには「読まれ」えない写真は多いはずだ。「読む」という語や姿勢を否定しているわけではない。それが向かうべき対象を問題にしているのである。
ブレット・ウェストンは「重要なのは光を読むことだ。それができないくらいならやめたほうがいい」といったことを語っていた。出典である晶文社の『写真術』が見つからないのはどうしたことか。これはずっと持っているべきごく少数の本の中の一冊なんだが。ともあれこの本は全体にかなり意訳されている傾向でもあり、原書ではどうなっているのかわからないのだが、いうまでもなく彼は単に実際の光を頭の中で結果としてのモノクロプリントの仕上がりに変換するというだけではなく、その先のことを語っている。ただ、「結果を予見する」というのはその入り口ではある。カメラのデジタル化によって、「結果を予見する能力」を涵養すべき必要はなくなり、その場でそのつど確認しながら撮影するのがあたりまえになるだろう。カメラのデジタル化がもたらす変化とは、突きつめればこの一点のみである。カメラの液晶画面表示から、場合によってはカメラにつないだPCのディスプレイ表示から、最終的なアウトプットの仕上がりを想定するのは、予測というよりも補正といったほうがふさわしい。そこに必要なのは慣れであって能力の獲得とは違う。そして、よかれあしかれ、眼前の光の状態から撮影結果を思い描くという意味での「光を読む」能力は廃れ、あるいは無用の長物となっていくだろう。