展示にお越しいただいた、鑑賞対象としての写真の文脈とは無縁の人物から、あの写真群について、「どこか一点から見ると普通に見えるんですよね」という指摘をいただく。
鋭い。文字通り視点を180°回転させた的確な洞察。まったく思いもよらなかった。しかし確かにそうなるように思える。
撮影の時点でのフィルム面から見たピンホールの位置と、写真の印画面から見て同等の場所に視点を置けば、撮影した時の視点から通常に見た時と同じパースで見えるのではないか。もちろん単眼視であることが大前提だが。ピンホールと同等の視点というのは、この写真の場合、原板から4倍程度に引き伸ばされているので、その拡大率を反映した相似の位置ということである。そうした視点から、印画紙に対して10°程度の角度で見れば、所期の効果が得られるはずである。ただし、そのような角度から肉眼で見た場合、傾いた写真の手前から奥に至る全面へ同時に目のピントを合わせることはできないので、理念上は元通りのパースペクティヴへの復元が発生しているとしても、実際には元の対象同様には見えないだろう。
思考実験の結果そのような仮説に達し、実際に検証してみる。とはいえただ「斜めから見る」だけ。すると、全面にピントが合わないことよりも、この位置からでは、写真を見込む角度が広くなりすぎて視野に収まらず、その推測が正しいとも正しくないとも判断しがたい。しかも何度も書いているとおり元の建築物の形状を忘れてしまっており、日に日にそれが昂進しているため、比較しようにもできない。たぶん元に近いんじゃないかという印象どまり。肉眼はピンホールほど広角ではないということを確認したにとどまるか。しかしこの認識を得られたことは非常に重要である。
そんなさなか東京国立近代美術館の所蔵品である山中信夫の写真に遭遇。三角形や台形に切ったモノクロ印画紙を一面が開いた箱の中で立体状に浮いた状態で支持しながら固定してある。基本は開口面と平行なのだが、やや傾けるなどして構成されている。印画紙は未露光の状態で暗室内で組み立てられたのちに露光され、箱ごと現像浴以降の処理が施されたと思われる。そのような箱が、開口面を揃えて5個積んである。それと同じ配置で露光されたのだろう。写っているのはおそらく露光された部屋の外に見える風景。天地が逆転し、上方に草木、下方に民家の屋根らしきものが写っている。印画紙が重なっている部分では、隠れている部分は影となっている。手前の印画紙も奥の印画紙も同等にピントが来ているように見えるのは、ピンホールによる結像であるからに他ならない。影の部分の輪郭は画像よりシャープであり、影の外側には、影の元となった印画紙のエッジからの回折によると思われるピントの低下と光量増加とが観察される。
これを「ある一点から」見ると、影とその元となる印画紙の形状がぴたりと一致し、5つの箱の画像相互の関係が整合的となり、箱で分断されてはいるもののひとつながりの結像の再現として認識される。「ある一点」とは、箱から3、4メートルほど離れた地点上におそらくあり、これはこの箱にとって、露光の時点でまぎれもなく「そこにピンホールがあった」場所なのである。
見事というほかない。20年も前にピンホールの可能性を踏破している。しかし山中信夫のあらゆる活動を知悉しているだろう人物に確認したところ今回の個展のようなことはやっていないとのことだった。ピンホールカメラの仕掛の幅を拡張させることに関心が向いていたため、遠近法といった別の規範からの着想を通じて新規の画像内容を得るという手続きには向かわず、この可能性を見落としていたのかもしれない。
不可解なのは、印画紙上の像がポジ像に見え、影となった部分が黒かったこと。いったん撮影したネガから焼き付けしたということはあり得ない。それならば凹凸のすべてにピントが合うはずがない。モノクロ印画紙をリバーサル現像したのだろうか。それとも既製品のリバーサル印画紙が存在したのか。モノクロリバーサルフィルムならともかく、印画紙でそんなものは聞いたこともないし、それが必要になる一般的な用途も考えられないのだが。第一、いずれにしても第二露光が必要なはずで、あの複雑な形状に重ね合わされた印画紙のすみずみにまでムラなく第二露光を与えるのは至難だろう。ひょっとすると上記の推測は根本的に誤っているのかもしれない。
そこから見ることが特別な意味を持つような、特異点としての「ある一点」。しかし、穴のあいた壁越しに、穴を通して見せるような視点の制限、それはまさしくピンホールカメラと同じ形状なのだが、そのような展示形態をとらない限り、そのような一点からのみ見せるということはできない。写真は通常、展示空間内の自由な角度と距離から好き勝手に見ることができる。撮影者が撮影の時点で想定していた意図と同じ見方で見てもらうよう、観客に対して強制することはできない。いかなる角度からの見方に対しても開かれたものとして提示されている以上は。