広角レンズで撮影した画像は、周辺部で遠近感の誇張が発生し、画面中心に向かって収束するような、肉眼視とは異なる遠近法的秩序によって構成される、そのように見なされている。確かに広角レンズによる画像を無造作に一見したところそうした了解が正しいように見える。しかしながら、「ある一点」から見た場合にはそれがなりたたず、広角レンズ特有の遠近感は喪失する。肉眼視したのと同じ状態になるということだ。その「ある一点」とは、その画像を撮影した時の視点である。それは実際には、撮影した時にレンズの主点から受光面を見込む角度と、印画紙を見る眼球の水晶体の主点から画面を見込む角度とが同一である場合である。大雑把に言えば、35mmカメラで焦点距離20mmミリのレンズを使って撮影したフィルムを20倍に拡大して大全紙の印画紙に焼き付けたとしたら、20x20=400mm程度離れた場所からこの印画紙を観察すれば、広角レンズ特有の空間再現ではなく、もともとの対象をカメラの位置から見たのと同じ奥行き感になるということだ。
この事情は何も広角レンズに限られるわけではない。長焦点レンズを含むあらゆる画角のフラットフィールドのレンズに例外なくあてはまる。ズームレンズであれば撮影時の画角に適用されるし、露光間ズームの場合には視点が画像の位置によって変わるということになる。むろん写真にとどまらず、透視図法によって形成された空間再現には固有の最適鑑賞視点が存在するのである。そこを離れれば奥行き再現に破綻が生じ、微妙ではあれ空間に不自然さが発生する。絵画での最適鑑賞視点とは、描かれる時に視点が想定された点となろう。それは多くの場合、画家が絵画に向かう時の距離に由来するであろうが、天蓋図や鑑賞点があらかじめ定まっている場合にはそれに合わせて透視図法が整序されたのかもしれない。透視図法とは、本来この一点からのみ見られるべき空間再現様式なのである。このことは15世紀にはすでに認識されていた。
絵画がカメラ・オブスキュラを透視図法のモデルとしている間は、ピンホールであれ単玉レンズであれ、画角の狭い投影像しか映すことはできず、それに対応した範囲で描かれることが多く、それを超える広角というべき空間再現が必要になる場合には正確な透視図法に準拠せずに丸めて描かれたし、極端なパースのついた建築物が描かれることもあるにはあったが、それだけならさほど違和感を催すことはなかったのだろう。しかし光学技術の進歩により広角レンズが登場するに及んで、広角レンズの画面周辺では人の顔が変形するという事態を、他ならぬ透視図法のモデルというべき光学装置によって否応なく突きつけられたわけだ。かつてはカメラ・オブスキュラで得られた作図法からの演繹的操作としてパースのきつい建築物が想像的に描かれるにとどまっていて、現実に画角の広い条件では顔があんなことになるとは誰一人思わず、画面周辺部の問題については適当にやりすごされたりごまかされてきたのだろう。実際、19世紀以前の絵画で、広角レンズによる顔の変形を先取りした例など見たことがない。しかし建築物のみならず人物に対しても透視図法を容赦なく適用すれば、広い画角の周辺部で顔が無惨にゆがむのは避けがたい。透視図法、すなわち線遠近法では原理的に、対象が忠実に再現されるのは「ある一点」からそれを見た場合であることは古くから知られていたが、透視図法を拡張することであのような無惨な現象が現れることは写真によってはじめて認識されるようになったのではないか。
遠近法はおもしろい。そのおもしろさは、徹頭徹尾論理的に考え抜くことができ、その限りでは間然とするところのない明証的な思考を構築できるところにある。うっかりすると「神の視点」やらといったまったく論理的厳密さを欠いた議論に巻き込まれてしまうが、それは透視図法つまり線遠近法の問題ではなく絵画にまつわる精神史なり文化史の問題であって、幾何学的な線遠近法のみに絞るならば論理的徹底を貫くことができる。
かつて大学在学中、自由論を専門とする院生に、なぜそんなことをやっているのかとたずねたことがある。まったくリアリティが感じられない、自由の何がいいのか。その答えは、問題としておもしろい、ということだった。哲学史のはじまりから現代までに関わっており、さまざまな論点を含みこむきわめて拡がりのある問いであるからとりくんでいるのであって、自分が自由かどうかといった内的動機やら自由なるものについての思い入れなどは一切ない、と。そのように、遠近法は問題としておもしろい。視覚的再現の根幹というべき大原理であり、写真や再現的絵画、映像を考える上で本来は避けて通れない問題のはずである。少なくとも、深読みやこじつけや言いくるめやアナロジーや……いや、やめておこう。
合理的である限りにおいて、このような合理的思考様式を習得した相手であれば、誰にでも話が通じる。実際、これらの写真をおもしろがってくれるのは、鑑賞対象としての写真にはなじみがなくとも理数系の素養を持っていたり合理的思考に長けた人々である。
それだけにとどまらない。合理性や明証性は精神のよりどころとなってくれる。受け容れがたい現実に独りさらされて逃れようもない時、精神の平衡を保つには、あるいはそれが保たれているか確かめるには、合理性に依拠するしかない。超越的なものにすがるのでない限りは。
20数年前に当時の訳を読んだきりなので詳細は不正確だが、レムの『ソラリスの陽のもとに』でみずからの精神の正常さに確信を持てなくなった科学者は、ひたすら惑星軌道を手で計算して自分が狂っていないことを確かめようとする。そして机の引き出しに計算が書かれた大量の紙を見つける。それは前任者がやはり手計算した跡だった。ツヴァイクの『ロイヤルゲーム』で、ゲシュタポに監禁された男は極度の無為の中で精神の危機に瀕し、看守からくすねたチェスの譜例集を辿ることでどうにか精神の瓦解寸前で踏みとどまろうとする。牢獄で語学を習得したという大杉栄や、獄中で創作活動を続けた永山則夫・平沢貞通といった実在の人々の心境をそこに重ねられるのかもしれないがよくわからない。
しかし、合理的思考のみでは人格は維持できないのだ。なんらかの現実的裏づけがなければならない。『ソラリスの陽のもとに』では、軌道計算の結果が実際の軌道と一致することによって発狂していないという確認がかろうじて得られる。『ロイヤルゲーム』ではチェスの譜例集という外的な基準をよりどころとして崩壊せずに持ちこたえる。しかし、彼はその譜例を暗誦しつくして無為に引き戻されてしまい、やむなくみずからとの対戦という、現実的な「他」のない論理的な演算過程のみの精神活動に追い込まれたあげく錯乱に陥る。
相手もおらず外界の参照物もない論理的演算というのはありうる。楽器もなくただ思考のみによって作曲したり、ひたすら数学的な思索を続けたりすることで、孤立系に閉ざされても平気な人もいるのかもしれない。ただ、それはみずからの精神の正常さについて確信的な信憑が得られる手段を有している人間か、もともと精神の変調のおそれなどない超人的に強靱な人間か、さもなくばすでに変調した人間だろう。
思考の合理性というのは、手続きが「真」であることを保証するだけでしかなく、出発点なり到達点が「正しい」か否かの根拠を与えることはできない。純粋に演算的過程が無謬であるというのみでは、自分が正常なのか狂っているのかの判断はつけようがない。みずからの外から何がしかの反響が戻ってくることが必要なのである。自分が間違っていないという支えを与えてくれる他者が存在しない時、筋道立った思考の結果が現実との一致を見ることをみずからが確認するという、まさにみずからの声のこだま、みずからの理性の反映、みずからの外在化のほうから、自分は正しいとの手応えを投げ返してもらうほかない。
レムやツヴァイクの描いたような極限状況下にないということはいうまでもない。ぱっと見には精神の危機に直面するなどという事態からは程遠いぬるま湯につかっている。しかしこのぬるま湯は底なしだ。まだ抜け出せると思っている間に飲み込まれ、次第に腐り果てていく。そして、これに近いような精神状態に長期にわたって打ち棄てられた末に、鬱やアルコール依存症に至った人々を知っている。精神の崩落に追い込まれないための支えは、論理的思考を裏づける写真という生の所作と、対象・カメラ・感剤という現実そのものだ。現代のカメラや感材のふるまいはつねに因果律に従っており、合理的推論によって予測しまた跡づけることができる。というより、同一の条件下では同一の結果が得られなければならないという合理的精神を体現したものとして、また、誰もが効率的で無駄がないと認めるような秩序の象徴として、写真のシステムはかつて構築されてきたし、今なおそのような面が残っている。だからこそ合理的思考の杖となりうる。しかし一般の写真は必ずしも合理的とは思えないしかたで使われ、それ以上に、すべての写真は往々にして合理性に反した扱いを受ける。それに抗するには、やはり、ただ明証性を規範とし、写真の合理性を信じるしかないのだ。