これまでの写真について、コンセプチュアルであるとの評を受けたが、どうにも違和感がある。コスースのような狭義のコンセプチュアル・アートのみがコンセプチュアルだと主張するつもりはないが、自分のやっていることは「コンセプチュアル」という態度からはほど遠いという意識がある。これはひとえに「コンセプチュアル」という語の用法に起因する食い違いだろう。
Aという概念の語義をはっきりさせるには、非Aを考えるのがてっとりばやい。「コンセプチュアル」でないのはどんなものか。ヴィジュアルであること、視覚的に訴えるということがまずもって挙げられるだろう。つまりコンセプチュアルな鑑賞対象とは観念的要素を視覚的要素よりも優先するもののことである。ところが、これまでやってきた写真はすべて「見させる」こと、視覚的に訴求性が高いことをまずもって意図しており、そうした意味で「コンセプチュアル」とされる傾向とは対極にある。
ただ、巷間でコンセプチュアルとされているような傾向と近似した面もないとはいえない。その場合にはどんな意味で用いられているのか。「コンセプト」があるからコンセプチュアルということなのかもしれないが、だったらコンセプトって何となるのがあたりまえ。きょうびコンセプトやらステイトメントなる代物を準備していない鑑賞対象提示者は稀だろう。展示しようとすればいちいち書かされ、展示中には訊かれるんだから答えにゃならん。そういうわけでコンセプトがあればコンセプチュアルだという解釈はなりたちそうにない。ならば思考主導的ということか。だとするとコンセプチュアルではない人はものを考えてないということになるのか。定型的方法で一律に処理するという様式をさすのか。だがものごとをやりつづけていくと、必ず一定の処理回路は確立されるだろう。本人が自覚するにせよしないにせよ。初期段階の手探りで不器用なしかたで、きまったやり方を構築することなくものごとを行うというのは、認知症患者でもない限りきわめて困難なのではないか。どんな人でも、その作業を続けていけばなんらかの処理手順を身につける。それが写真であれば画面に反映されやすい場合とそうでない場合はあるだろうが、いわゆるコンセプチュアルではない様式や意匠で示されることもある。それをもってコンセプチュアルかそうでないかの線引きは難しいのではないか。設定や仕掛けを用意してあり、そうした前準備に依存する度合が高いということか。それにしてもどんな制作物でも程度の差はあれ行われることであろうし、人を使ってあれこれ演出するような、必ずしもコンセプチュアルとはされない写真のほうがよほどそうした傾向が強いのではないか。
なんだかよくわからないのだが漠然と流布されるコンセプチュアルなる「概念」。ならば非コンセプチュアルとされるような例を考えてみる。素朴対象再現的、ストリート的、ストレート、はては直情的といったあたりになるのだろうか。一般にコンセプチュアルではないとされるようなたぐいの人物やら風景やらの写真よりもよっぽど見た目のおもしろさに腐心してるつもりなのだけれど、ただの身びいきなのかね。