昨日述べたことこっちとつじつま合わないかに見えるような気がしてきた。いや、目的は目的なのだ。最終的な写真が目的だというのは否定すべくもない。ただ、その写真は道具によって規定される。どのように規定されるかというと、道具の特性をいかに発揮させ、いかに効果的に画面に反映させるかということである。つまり、視覚的な訴求力が基準となるのである。制作者本人にとっていかに過程が重要であっても、提示されるときには制作過程は視覚的内容を通じて示されるほかない。
どうもうまくいかんな。人と逆のことを言おうとばかりしてるとあちこちでほころびが出てくる。
かつて、ある公立美術館の管理職に就いている学芸員の話を聞いたことがある。その人物が言うには、写真は、アートはコンセプトなんだ、われわれはコンセプトですべて判断する、ヴィジュアルなんか見ないし関係ない、それが今の世界的スタンダードだ、という。そこで質問した。あなたが企画した展覧会で、あるアーティストの一連の制作物を展示することにしたとき、スペースの都合上、それらの全部が展示できない場合に、何をもって展示するものを選り分けるのか、と。同一のコンセプトで制作された一群のなかから一部を選択する、どこでもやっていることだ。どうやって選んでいるんですか。こいつはうーんとうなるだけで、ひとことも答えられなかったね。そこで助け船を出してやったよ。個々のタマがどれだけコンセプトを効果的に反映しているかどうかという基準で選ぶんですか、と。そしたらそうだと答えた。でも、効果的に反映しているかどうかの見きわめはヴィジュアルの問題なんじゃないんですか、それはコンセプトには還元できないような見た目の判断をどうしても含むんじゃないんですか、ヴィジュアルを見ないでどうやって判断するんですか、と。むろんぐうの音も出んさ。この国の美術界で幅をきかせているのはこの程度の連中なのだ。そしてこいつらにはものを見る目が絶望的に欠けている。美術に携わるものとして生命線であるはずのその能力を涵養する努力を最初から放棄しているのだから、そんなものがあるわけがない。もともとその素質がないからそっち方面に飛びついたのかもしれんが。コンセプチュアル的傾向がのさばったあげくがこのありさま。オリジナルのコンセプチュアル・アートに歴史的意義はあったと思うが、それ以降の同類は前人が確立したフレームワークに乗っかるだけのパクリでしかない。そんな風潮に与する気は毛頭ない。見させてなんぼ。話はそっからだ。