試行錯誤などというのは推奨されるようなことではない。それは意義深い過程であるかのように聞こえるけれど、実のところは失敗の連続である。手持ちの情報から結果が見通せないばかりに幾度となくやり直すはめに陥っているのをさも価値のある振舞いであるかのごとく言いなしているだけのことで、内実はといえばただの時間と物資の浪費にすぎない。そこに至る原因としては三つ考えられる。まず判断にあたっての材料の不足。経験値が乏しくては予測のしようなどない。次に熟慮の不足。検討が徹底されていない。そして洞察力の不足。処理性能が低いようだとどうにもならない。素材・過程・能力のいずれかないし複数の問題ということだ。
試行錯誤しないですむならそれにこしたことはない。でも、やらざるをえないのだ。やってることが特殊すぎてデータの蓄積がどこにもなく、一から積み上げるしかない部分もある。しかし少ない足がかりからでも適切な推論を重ねれば充分に予測できたはずで、どうして見抜けなかったのかとあとになって不思議なこともしばしば。それは制作に限った話ではなく、どうやら生活の全体にわたってその傾向があるらしい。ただ生活の大半の局面ではそうそうやりなおしもきかず、あるいは繰り返すほどの必要もなく、単なる見通しの誤りで終わる。制作の場合にはやり直しが許されかつ可能であり、またその意志が保てるので再度試みているだけのことだ。これが仕事の写真だったら次はない。
なんでこんなに無駄が多いかね。自分なりにできる限り検討しているつもりだし、むしろ考えすぎるほど考えている、ぼーっとしている時間の長さでは人後に落ちないと断言できるし、考え落ちで行動に移るのが阻まれるほどに、とにかく時間だけは莫大に投入している。そうなると導かれるべき結論はただひとつ、思考能力が低いということだ。それじゃしょうがない。頭悪くてもなんらかのものごとをなしとげしようとしたら、ありったけの時間と資材と労力をつぎこんで実地に試していくしかない。試行錯誤というのは、泥臭く現場であがくことで賢者と渡り合うという、愚者のための方途なのだろう。物理学の実験屋が手業と手間とで理論家に並び立とうとするようなものか。もしかすると、これらの写真の全体が、頭脳の性能では到底太刀打ちできないアームチェア型の知性に対抗するための手段なのかもしれない。