id:mannin氏の指摘にしばし考え込む。

写真て、不確定要素はあっても偶然は存在しないんじゃないですかね?

むむむ。妙に説得力があり、何となく納得してしまう。
しかし、よく考えてみるとだんだんわからなくなってくる。「不確定要素」と「偶然」の違いはなんなのか。写真には偶然がないのならば、写真には必然のみがあるということになる。それが論理的に正しい判断である。この命題は何を意味するのか。写真においては何もかもがあらかじめ決まっている、そのようになることが確実であり、すべての結果はそうなるべくして起こっている、という命題に直結する。これは決定論である。それもわれわれの自由意志を否定する徹底した決定論である。
これはわれわれの一般的な常識からしてにわかには受け容れがたい。みなみずからの意志において写真をなしている、そのように思いこんでいる。ところが、個別の局面ではそのように見えるが、大きく見れば誰しもがおきまりのコースを辿って定められた帰結に落ちついている、ということもあながち否定できない。レールはあちこちに敷かれている。「写真はライカにはじまってライカに終わる」なる顛末を歩んでいるお目出度き人々が少なからず実在するらしいのだ。そのように、お釈迦様のてのひらで遊ばされているようにあらかじめ決定されたルートを進んでいるだけだという話なのか。
しかしまあ、どう見てもそんなことまでほのめかしている様子ではない。元の記事の前後の脈絡を考えると、撮影ではなくプロセスに限定した話ととらえるべきなのだろう。劣化した感材の使用なり、ソラリゼーションやらサバティエ効果やらクロスプロセスやらといった特殊技法処理では、完全な制御と結果の予測が難しく、仕上がりがばらつくことが多い。これは一般に偶然に左右されると見なされている。だがそれは、充分なテストを行っていなかったり、諸条件を把握しきれていないために発生するのであって、偶然ではない、ということだろう。そこでは、原因と結果とが確実に結びついており、因果律に支配されていると考えられるからである。暗室作業における偶然の排除はアンセル・アダムズの主張でもある。誰でもいいのだが、たとえば、長野重一の写真で早朝の目黒交差点を若い女性が渡ったのは写真家本人の意志を超えたまったく制御不能な事態であり、偶然と呼ぶほかない。しかし、処理において結果が見通せないのを偶然のせいにして片づけるのは誤りであり、影響を与える要素をとりこぼしているだけのことだ、と解釈するのが妥当なように思われる。
しかし、それだけだろうか。そこで女性が現れたのは不確定要素ではあっても偶然と考えるべきではないということなのか。うーむ。