朝快晴ヌケよし。でも西に遠く雲。拡がりそうな気配だが出発。鎌倉も気になるが出るのが遅かったので鶴見の大本山總持寺へ。西口の高台。このへんは昔鈴木清の展示を見に来たことがある。上がってみると敷地が広い。都内ではちょっと無理な広さ。都内で境内が最も広い寺院は池上本門寺ではないかと思うが、その倍くらいありそうに思える。墓所がまた広い。成田山新勝寺ほどではないが次ぐほどに広いのに、なぜか門前町がない。曹洞宗禅宗だからそういう商売じみたことは避けるのだろうか。そのわりには盆踊り大会があるらしいが。そういえば池上本門寺の参道もひっそりしていた。こちらは日蓮宗總持寺は明治期末に能登から焼失のため移転してきたとのことなので、門前町が根づかなかったのかもしれない。
とにかくゆったりしていて気分が落ちつく。大祖堂は鉄筋の堂々たる巨大建築。瓦葺き状だが緑青の銅板屋根。さほど高くはないが横に広い。いや、横幅があるために低く見えるだけで、実は浅草寺とか川崎大師くらいの高さがあるのかもしれない。ほぼ東向き。仏殿はやや小振りだが木造。都内の寺には必ずある軒下の鳩よけの金網がない。このへんは鳩が少ないのだろうか。でも正面の床にはフンのあとがたくさん。詳細が見えるのはいいのだが、2段屋根型で残念ながら格好がよろしくない。木にやや隠れてもいる。大祖堂は鉄筋でもあり撮影しようという気にならないが、こちらはやってもいい。しかし雲がありサイドライトよりもうしろに回り込んでいるので見送り。やるなら午前中だが、そこまでのものではなさそう。
寺なのに「殿」なのが妙。「御霊殿」まである。後醍醐天皇ゆかりの勅願寺だそうな。茅葺き屋根の門には金色のでかい菊の紋がついている。
他にもいろいろ建物はあるが、あえて撮影するほどでもない。三門がまた立派。金剛力士像には金網が張ってある。
まだ3時頃。雲が増えてくる。鶴見近辺は新子安駅から線路沿いに歩いたことが何度もあるだけであまり動いていないので、海方面へ行ってみる。駅から市大・理研方面へバスが出ており案内が立っている。何か催しがあるらしい。鶴見川を越え、小野方面へてくてく。この先は鶴見線が通っていないので来たことがない。旭*硝子はカメラつき携帯電話の持ち込みも不可。市井の人には不便そうだ。理化学研究所横浜研究所と横浜市立大学鶴見キャンパスは今日一日限り公開されている。市立大はどうでもいいが理研は興味がある。ライフサイエンス方面のいくつかの分野ではたぶん国内最高水準の研究機関。そうそう入れるもんじゃないから覗いてみたい。あとで寄ることにし埋め立て地の最果てまで行くことに。もう雲だらけ。
*ガス環境エネルギー館はどうにも。北部第二下水処理場のタマネギ型タンクが気になる。10数年前の田村彰英のカラー写真にこんなのがあった。清掃工場は煙突がなければアニメにでも出てきそうな形状。高齢者保養施設とかいいながら子供連ればかりの「ふれーゆ」はレンガもどきで対象外。
戻って理研へ。17時までで10分かそこらしかない。うろうろするがどこに何があるのかわからない。あとから案内を見ると結構いろいろやっていたらしい。行きついた先でざっと話を聞く。DNAマイクロアレイにしろタンパク質解析にしろ画像解析が主たる手段になるらしい。でその画像がどうやって形成されているかなのだが染料着色らしい。フォトリソグラフィーやインクジェットやバブルジェットがどうなっているかを聞きたかったのだがそこまでつっこめなかった。
あとは顕微鏡に興味津々。低倍率の双眼実体顕微鏡がいろいろあって、ハツカネズミの胎児の成長が見られるようになっているのだが、対象よりも見るための手段であるところの顕微鏡に反応してしまう。小学生の頃安物の顕微鏡を買ってもらったのだが、あれももう処分されただろう。実際の顕微鏡を覗いたのは久しぶり。日本科学未来館とかトッパン印刷博物館で覗いただろうか。OlympusZeissLeicaがある。どうもZeissがいちばん見えがいいような気がするのだが、対象の照度や倍率などいろいろ条件が違うので単純に比較はできない。左右の接眼部の幅が目と合わないせいかアイポイントが低いのかしばしば立体視できなくなる。意外なのは数mm程度の対象を5倍とか8倍で観察する場合に、ピント位置をずらす時の対物レンズの移動量の大きさ。1mm程度奥行きをずらすためにレンズを3cmくらい上下させていたようなのだが、近接撮影での感覚とはずいぶん違う。あれ、こんなに動かしちゃっていいのという感じ。接眼部は動かなかったような気がするのでインナーフォーカスみたいなものなのだろうか。もっといじり倒したいのだが時間がない。
そして1分子顕微鏡というのがすごい。分子ひとつを観測できるというのだ。しかも可視光で。これまでの理解では、微細な対象を精密に観察したいというときに、光学顕微鏡だと可視光の波長が分解能の限界になり、それ以下のものは見えないので、より波長の短い電子線を使う電子顕微鏡が開発され、それでもどんづまりなのでもう波はやめて、視覚障碍者が手で対象をなぞってその形状を知覚するような接触式の原子間力顕微鏡ができた、と思っていた。
ところが1分子顕微鏡は400nmとかの可視光を使う。しかもRGB全色使う。対象の特定の分子が赤青緑のどれかに発光するようにしてその可視光を観察するということらしい。それもレンズを使った光学系で。可視光だから400nmとか700nm以下の分解能はもたず、得られる画像では実際の分子の50倍程度の大雑把な大きさでしか観測できない。しかし分子の位置は特定できる。分解能が低いので、画像内で光っている部分には分子が一個だけとは限らないが、発光している箇所の明るさと波長分布を調べれば、そこにどの種類の分子がいくつあるかがわかる、というわけだ。ピントが浅いので、焦点面をずらして複数の画像を得ることにより立体的な構造もとらえることができる。光学技術なんてものはとっくに枯れ果てた分野だと思っていたのだが、こんな最先端の分野で活用されているとは心強い。画像はカラーで、一見したところ星空のよう。直観的にわかりやすい。
興味深いのは、これを開発した研究者が、免疫細胞の研究が1分子顕微鏡の対象として最適であるから、その研究のために理研に移ったということ。また、純度の高い色を透過させる光学フィルターだったかを開発した人が、それを活用できる場面はどこかにないかと探して1分子顕微鏡に行きあたったといったこともパネルに書いてあった。こういうなりゆきはよく聞く話である。プラスチックモールドの非球面レンズは開発後使い途がなかったのを、コ**カがパクって光学ディスクの読み取り用ピックアップに応用したということだったし、セメダインのスーパーXにも、たまたまできた高粘着力のシリコンの用途を考えた結果接着剤に行きついた、といったエピソードがあったような。手段が目的に先行し、目的は手段に規定される、ということはしばしば起こる。技術がそれによってつくられるものを導く。技術や手段が目的を顕在化させるのである。手段が目的に従属しなければならないなどということはまったくない。やりたいことがまずあって、どうやったらそれが実現するかをしかるのちに考える、という態度では、「やりたいこと」が残されているうちはまだいいが、可視化されていて、しかも実現可能な「やりたいこと」はほぼやりつくされてしまい、「何がやりたいのかもよくわからない」段階では、もはや何も生み出せなくなるだろう。
にもかかわらず、鑑賞対象としての写真の人々は「言いたいこと」やら「伝えたいこと」が技術や手段よりも優先だなどという中学校の国語教師じみた正論を振りかざしてくる。伝えるべきこと、伝えるに値することなどという代物が、はたしてアートやら鑑賞される写真に今なお残されているのかという反省もおそらくは経ぬままに。
光学技術と鑑賞対象としての写真は違うと言われるかもしれない。だが、ものをつくるという点ではなんら変わるところがない。どこが違うというのか。
もっと早くから来ればよかったと思いながらも、撤収にかかっているので出る。無料バスで鶴見まで送ってもらって帰投。