id:manninさんの発言を受けて、写真と偶然とかについてあとから読み返してみると言いがかりまがいのことを書きつけたところ、わざわざ応答をいただいたのだが、もとの文脈を離れてしつこく考えてみる。
写真というメディウムは可塑性が高いので、偶然性を許容する度合にもいろいろありうるだろう。偶然や不確定要素の介入を許さないのはスタジオでの商品撮影。失敗が許されず、反復精度と結果の安定が求められるので、極力条件を揃えることで仕上がりのばらつきやトラブルの原因は排除される。あらかじめ思い描かれた画像を実現することが最優先されているのである。むろん予期しなかった効果を偶然がもたらすこともあるだろうが、それがよしとされるのはあくまで制御可能な範囲内でのことである。個別の新しい局面への対処法がそのつど編み出されるだろうが、それも予測の範囲内として消化する度量が求められる。不測の事態は忌避される。スタジオでのプロフェッショナルな撮影を実際に行った経験はないのだが、おそらくはそういうことだろう。
商品撮影に限らず、複写、科学撮影、医用写真など多くの実用目的の写真は、高度な科学研究分野は別として潤沢に予算が与えられた商品撮影ほど条件の均一化が徹底されていないかもしれないが、基本的には同様の態度で運用されていると思われる。Sinar社の製品には、撮影への不確定要素の混入をいかに減少させるかという工夫が随所に見てとれる。今となっては過去の遺物なのかもしれないけれど。なお、SINARとはStudio、Industry、Nature、Architecture、Reproductionの頭文字による成語である。
そうした分野では、撮影も後処理と同様により大きな工程全体の一部分なのである。だから後処理と同様の厳密な工程管理が要求される。撮影者は撮影という工程に対する管理責任者である。偶然とは工程を撹拌する邪魔者でしかない。
逆に偶然を許容するのが鑑賞対象となる写真であろう。多くの鑑賞対象としての写真を特徴づけているのは、程度の差はあれ撮影の内容を偶然性に負っているということである。そのことは、何が起こるかわからないところに何かが起きるのを期待して出かけていく、あるいは予測できないことの発生をひたすら待ち続ける、という態度にうかがえる。なぜそのような態度をとるのか。おそらく、撮影するときに意想外の事態ならば、意想外の写真をもたらすと期待できるからだ。もっとも、すべての鑑賞対象としての写真が意想外の結果を追っているわけではなく、見慣れたもの、なつかしいものを求める方面はこの限りではない。また、鑑賞対象としての写真でも、スタジオでの静止物の撮影ではそうした度合が比較的低いかもしれない。スタジオとは、照明をはじめとする撮影条件を一定にすることで思い通りの撮影品質を得るための設備だからである。
徹底した工程管理を要求される撮影では、すべての条件と結果を事前に把握することが求められる。予期しないものは排除されるのだから、発見や驚きの介在する余地などない。副次的になんらかの気づきがもたらされはしても、工程の遂行にとっては妨げでしかない。場慣れしていてそつなく業務を進行できることが最優先なのだから、いちいち驚いているようでは発注者に信用されなくなる。だからそうした分野の写真では本来の創意といったものは抑えこまれている。一般の鑑賞対象としての写真の撮影では反対に、偶然性が排除されるとはかぎらず、むしろ積極的にもちこまれることさえある。それは、鑑賞対象としての写真では、完成度の高い結果ばかりを追求するものではなく、結果に至る過程を重視する場合があり、その過程での発見や驚きが時として写真を行う動機の一部となっているからではないか。id:uedakazuhiko氏の以前引いた記述では偶然に頼ることが戒められているが、量を撮影すれば何かが得られるといわんばかりの数まかせの態度は、むしろ偶然がもたらす驚きの平準化につながるように思える。偶然性に訴えることよりも、対象や出来事のほうに安易に丸投げしている姿勢に問題があるのではないだろうか。
鑑賞対象としての写真というジャンルのなかでも偶然に依存する度合が特に高いのがスナップ写真、とりわけ街中での人物スナップなのだろう。なぜか。もっとも意のままにならない対象、見も知らぬ他者を相手にしているからだ。スナップ撮影についてもほとんどわからないので、これも単なる推測にすぎないのだが、いかに不測の事態を呼び込み、それを見のがさず機敏に反応できるかが問われるのだと思う。狙って待つという態度もありそうで、それは予測として先取りされてはいるのだが、それとてもいつ起こるのかわからない不確実な事態を待っているのであり、やはり偶然に依存している。
それら二極の間のどこかに一般の写真は位置していると考えられる。
しかしながら、街中での人物スナップでも、場数を踏むほどに、人の動きや次に起こることが予測できるようになる、らしい。そうすると無駄ととりこぼしが減らせるようになり、効率が上がって、工程管理のいきとどいた撮影での態度に近づいていくだろう。それは上達とされ、巷間で推奨されているのだが、そうなると、様式化され、発見も驚きも欠いた、ただし安定した内容となっていく。熟練とはえてしてそうしたものである。
問題なのは、今やっている写真がどうなのか、だ。初期にくらべると結果の見きわめはある程度できるようになったが、なお安定していない。今は動かない建造物を対象としているので、本来の意味での偶然は少ない。せいぜい人が横切る程度であり、不確定要素を読み切れないために起こる結果のばらつきが多い。ところが、その日出かけてみて撮影できるかどうかをもっとも左右する条件はと考えてみると、文字通り雲行き次第なのである。地球規模での偶然に撮影の成否をゆだねているといっていい。
偶然は失敗をもたらすが、発見や驚きの源泉ともなる。量産体制に入り、偶然の要素を排除していけばそうしたものも失われていく。偶然に何かを期待するという姿勢はプロフェッショナリズムからは遠いのだろうが、やはりそちら側に与しているようだ。以前も書いたが、演出された写真よりも、たとえば前述の目黒交差点のように、ずっと待って遭遇した偶然の出来事の写真が価値が高いという、映画畑の人からすればあまり意味のない尺度に今なお執着しているのも、不測の事態に振り回されながらも、そこに何かを期待しているからなのだろう。