思い通りにいったときの満足感の由来は、意図していたことが成功したというだけにとどまらないような気がする。あらかじめ仮想実験して、こうなるはずだと予見し、実際にやってみてそれが確認されるという手順を踏むことで、自分の考えは正しかった、間違っていなかった、というお墨付きを与えられることが快につながっているのだと思う。お墨付きを与えるのは誰か。世界だろうか。他者から承認してもらえなかったら世界に承認されるしかない。承認欲求というのは厄介な代物だ。しかるべき承認を受けていないという思念が長期にわたって熟成されると、ネットのあちこちに渦巻いている呪詛にも似た不遇感となって饐えた臭気を発散しはじめる。世間のかわりに承認を交付してくれる機関があったらいただかない手はない。しかるに、「他者」を除外した「世界」とはいったい何なのか。道具体系か、物理法則か、科学的合理性か、はたまた自然の摂理か、どこぞの超越者か。
そんなわけがない。承認を与えてくれるものを遡っていくなら、いつものオチに辿りつくほかない。道具やら合理性は手続きの正当性を支えるものではあるが、そんなものが承認も何もくれるわけがない。道具は道具だ。道具やその合理性というお題目を笠に着ているだけなのだ。誰が。自分自身以外に役者は残っていないだろう。そうした御朱印つきの鎧かぶとをまとって公正証書を発給し、ちゃっかり自分で受領しているだけのことなのだ。結局はただの自己承認で終わる話か。
以前にもこんなこと書いていた。まるで進展なし。