時間と技能を切り売りするだけの賃労働に従事していると、撮影行への渇望がふつふつと湧いてくる。こうした強い動機は、時間がありあまって怠惰に流れがちな日々にはつい見失ってしまうものだ。焦燥感とか飢餓感とも違うように思える。砂を噛むような作業もそうした支えがあれば乗り切れるという、いわば日々の糧として、何かを祭り上げる内的必要が生じ、たまたま写真しかなかったからそれを使っているというところなのだが、理由はどうあれそうした条件へと強制的に投げ込んでもらえるのだ。ありがたいことではないか。無精な人間はそうでもないとただぼーっと過ごして終わってしまう。
とでも思わなきゃねえ。ちょうど天気も悪いことだし。