早朝やや雲あり寝てたら9時過ぎには南方に雲あるもほぼ特快晴。でも出てみたら頭上にぽっかり巻雲。懸案だった鎌倉へ。日曜なので人出が多いだろうが、これから紅葉が進むともっと増えるだろうから今のうちに。昼前着。駅前で観光案内図を配っていて、地図が見つからなかったのでちょうどいいと思ったのだが、何か買わされそうでやめておく。でもそれらしき紙をもっている人があちこちにいて、やっぱりもらっておけばよかったとも思うが、寺の案内標識が立っているのでさほど困らない。まずは気になっていた長勝寺。昼でも遅い。木の影が屋根にかかっている。本堂は擬宝珠が印象的だがそれ以外にはとりたてて特徴がない。高村光雲作という日蓮大聖人辻説法像や四天王像があるのだが、背が高くてどうしようもない。それから妙本寺夏至頃に来るはずだったのだが、結局こんな時期になってしまった。やはり影がかかる。ここはいい。これぞ古刹という風情。日蓮宗最古の寺院であり、しかも祖師堂は鎌倉最大級の木造建築とか。なんといっても拝観料などとこすい商売をしないのがいい。まさしくどっしりと構えている。本堂も悪くないのだが、構えてみてもうまくいかない。写生の老人がちらほら。ここに来たくなる気分はわかる。いずれどうにかしたいもの。その近くの神社を確認し日蓮辻説法跡を過ぎて宝戒寺。拝観料をとるので通過。特に印象もない。報国寺。お堂は見られる。「報国禅寺」とある。その先の竹林は有料。ずんずん歩いて光触寺。無料。ちょっと異様な光景。なぜかと思ったが石仏が並んでいたかららしい。一遍上人像も一心不乱というか尋常ではない。いいお寺だが本堂はこじんまり。その先の十二所神社もちんまり。明王院は見逃すがここはいいだろう。浄妙寺も有料。脇から入っていって覗いてみるがとりたててどうということもない。駅で手に入れそびれた案内図が落ちているのでしめしめと拾う。杉本寺はすりへった石段を上がって仁王門に入る手前で案の定金を巻き上げられるのでひきかえす。たいした寺じゃない、との声が聞こえる。
ここにも写生の人。なぜ再現するのか、という、むろんわれわれも否応なく巻き込まれる根本的な問いが浮かぶ。その場で見えてるものでは不足なのか。写真ならすぐなのに、なんでわざわざ。老後の暇つぶしか。それだけじゃないだろう。いわゆる抽象のひとでも「モチーフ」をどこかから借りてきていることがしばしばあるようだ。だから抽象絵画でも非再現的であるとはいいきれないのである。なぜそうしたものを必要とするのか。ゼロから形をひり出すのは容易なことではない。すでにあるものを借りてきて、それに仮託して「情感」やら「作風」やら、よくわからないが各人の意図するところのものを表出させる。再現された対象はそういったいろんなものを乗っける土台として要請されている。つまり再現される対象は表出されるべき何かしらを媒介しているのである。ところが絵画というメディウムはそうした再現的行為を媒介する器である。物理的な支持体でもあり、メディウムでもある。そのような二重、あるいは三重の媒介するもの−されるものの入れ子構造がある。しかしこの説明は、なぜ再現するのか、との問いへの十全な答えとはなりえていない。「何かを仮託するために、その土台として再現すべき対象が必要となる」のであれば、仮託すべき何かを用意する以前の段階にありながらもなお絵を描くという事態を説明できない。子どもの発達段階では対象に似ていることが絵の評価基準なのであり、対象そっくりに描く技術を向上させようとする。写真出現以前の世間で大多数の絵画もおおむねそれに近かったかもしれない。「情感」だか「世界観」だかなんだか知らない代物はそのような過程を経たあとに強制されるものである。ただ似てるだけじゃだめなのよ、それを見てどう思ったかが描かれていないと、というわけだが、何かを再現しよう、家族や電車やお日さまを描こうという動機はそのはるか手前に位置しているのである。そこに何かがある。ただ再現に没頭している限り、この問いは解明されない。やはり「器」を問題にしていくことによってしか明かされえないだろう。
15時前くらいから巻雲が出てくる。鎌倉宮はちょっといい。神社は表向き拝観料などとらないのでこの辺では寺より好印象。歩いて覚園寺。お堂までは自由に入れる。その先に何かあるらしく有料。お堂は特に。黒い鳥が多数飛んでいて、カラスかと思ったらトンビだった。羽ばたくのはときどきで優雅に滑空している。夕日を浴びて颯爽と舞う。鎌倉大仏を撮影した時にも背後に飛んでいて邪魔だったけれど。さらに歩き瑞泉寺。鎌倉のはずれで、境内をさらに歩いたところで徴収ボックス。ナミの人なら「せっかくここまで来たんだし」と100円也払うんだろうが、それじゃ連中の思うつぼ。俺様くらいになるとその手には乗らない。こんな遠くまでわざわざ歩いてきてやったというのに、この上金まで巻き上げるつもりか。このように反応しなければならない。とはいえ、ここは境内が広いので本堂が見えず、どんなものか気にはなる。でも16時半過ぎで雲も広がっていて、行っても無駄と判断。行く必要なさそう。荏柄天神社は日本三大天神だそうだが控えめ。それにしても鎌倉にはオサレめかしたどことなく嘘っぽさが漂う店舗が多くてげんなりする。こんなでたらめな人間の言うことじゃないか。いやいや、見るからにインチキ全開ならかえってすがすがしいのだ。半端なのが見るに堪えない。暗くなったので帰投。実相寺、九品寺、光明寺、千手院の一角を見落としていた。いずれ。北鎌倉の円覚寺建長寺はそれなりの規模と格式のある寺なので、一度見ておく必要はあろう。お布施はやむなし。他の鎌倉ブランドにぶら下がってるところと違って数百円分の価値はありそうだ。撮影はぱっと行ってできるものではなさそうだが。
今日もテストすらせず。東京はもっと曇っていた模様。新しい靴ではマメの位置が変わる。靴下をもっと厚手のにしないと。