写真というメディウムに関する世間一般の了解を知るためのサンプルとして、メーカー系ギャラリーばかりでなくこういうところも巡回している。

http://www.nawa-jp.com/etc/etc.htm

機材の話題を繰り広げている限りはいい。しかし「写真とはなにか」などとのっけからぶたれたら見逃すわけにはいかない。
いまだに「写真はシャッターを押した瞬間の記録」などと述べられている。だが、建築写真では通行人を飛ばすためにNDフィルターを入れて1m以上の露光なんてざらだし、タングステン照明での近接撮影でも数秒時の露光は珍しいことではない。百歩譲って、現在ではそういうのは例外的かもしれない。しかし昔は写真の露光は長いのがあたりまえだったのである。数十秒とかいうのはどう考えても「瞬間」ではない。そんなにまぶたを閉じていたらはもはや目瞑りである。瞬きと見なすには無理がありすぎる。
「写真はシャッターを押した瞬間の記録」だとなれば、そうでないのは写真ではない、と続くのが自然ななりゆきである。必ずしもそうした意図を持たずに発されていても、鵜呑みにし受け売りして振りかざす輩が出てくる。このような態度が、長時間露光はもとより、多重露光や暗室でのさまざまな操作といった、今では古典的というべき写真技術もよこしまだとして否定する流れにつながっていく。こうして、スナップ撮影のフルフレーム使用以外の可能性を排除する抑圧的風潮の温床が長らく維持されてきた。言論において最大の害悪とは何か。聞き飽きたことの安易な繰り返し、それも熟慮も経ないまま習慣的に反復されている陳腐な主張である。それは往々にしてもっともらしい顔をしていながら、その裏でみずからの主張にそぐわないものを排除しようとする。しかも、幾度となく唱え続けられることで世間に蔓延してしまう。「健全な肉体に健全な精神が宿る」とまったく同じ構図である。われわれのやっていることが世間的認知を得られない理由の一端は、こうした啓蒙的立場の人々の無理解にある。もっとも、その最大の原因はこのように悪態をついて回る習癖にあるのだろうが。