文化的変容・伝播なるものへの疑問

受容史とか精神史、さらには文化史といったものは一般に、なんらかの共通認識なり認知的知識構造といった文化的傾向がある時期に広まっていき定着した、といった記述様式を旨とするわけだが、そんなに急に、かつまんべんなく伝播するものだろうかという疑問がずっと以前からあった。国といったって文化的中心から地方まである。TVが普及していい加減経過した現在でも、全地域がある傾向に突然染まるなどということは現実にはない。多くの人は流行やらなんやらとは無縁に暮らしている。ある傾向がそうした地域に浸透しきった事実をどうやって証明するというのだろうか。そうしたことを厳密に調べあげた実証的研究といったものは存在するのか。われわれの意識を基礎づける認知的知識構造が氷河のようにゆっくりと移行しているであろうことはうっすら了解されるが、そうした地平的領域がそうたやすく論じうるようなものとは思えない。きわめて長期に渡る地殻変動を、それも地殻の上にいながら把握するのは容易なことではない。少なくとも「写真はものの見方をどのように変えてきたか」などという問に対して、ありきたりの図式をなぞるように写真を並べてみたところで何も示したことにはならないだろう。
なんらかの文化的傾向がある国や地域で受容される際、その地域の中で受容が比較的早い小地域と遅い小地域とが出てくると考えられる。その小地域のなかでも偏差が生ずると思われるので、さらに小小地域に分断されるはずだ。こう考えていけば、受容主体の最小単位である個人に行きつかざるを得なくなる。その個人にしたところで、いったんその傾向に接したが最後恒久的に染まりきってしまうというものではなく、それ以前の傾向とその傾向の間を往還する日常を送ると考えた方が自然である。そうするとそれらを一律に扱うことはできなくなり、かといって個々の事例を詳細に究明するのも現実には無理だから、受容史なるものはほとんど不可能ではないかと思えてくる。ある範疇に属する個体はすべて同様の経過をたどると見なすことでそうした議論はようやく成立しているのであって、きわめて恣意的なモデルを仮構しての空論にしか見えない。つまり言説空間やら伝播空間なる偏差のない透明な媒材の遍在がそれらの前提となっているのである。均質な空間の無制限な広がりを仮定するという点で、これはニュートン力学と同等の認知的知識構造上にある。3世紀遅れているということだ。