私とは何者か。この写真が私である。しかしそこに私の似姿などありはしない。それは私の身代わり、代行なのではない。そんな使いっ走りどころか、むしろそれによって私が可能となり、それを通じてみずからをかくあらしめ、それを介しておのれを生きのびさせている、それほどのものである。こうした意味でそれはメディウムなのであり、そのようなしかたで、この写真こそが私である。
この撮影日誌が私であると言えるだろうか。言えない。いくつかの写真を全的にひきうける覚悟ならある。だが、この撮影日誌に対してそんな用意も時間もない。というよりも、この写真が私である、というひたすらな表明そのものがこの撮影日誌なのである。