この写真が私だ、というのは誇張でも美化でもない。実際のところ、おまえはなんなのか、と問われて、写真以外に提示できるものはない。何ひとつとしてない。丸42年やってきて、かたちとして提示するにたるものはこれしかないのである。写真が与えられていなかったら、まったく何もものにできずに終わっていただろうことは容易に想像できる。せいぜい飲み屋とここで繰り言を並べるだけで終わっていたに違いない。ここで写真がメディウムであるというのは、つまるところ、おまえはなんなのか、自分は何者なのか、という問いに対する答えを具現化する方途として写真があったという謂である。不定型な何かをとにかくもかたちにして社会化させる手立てであるという意味においてこそ、われわれにとって写真はメディウムなのである。メディウムとしての写真という問題の立てかたにはさまざまな相があるが、鑑賞対象としての写真という特殊なジャンルにおいては畢竟ここにつきるであろう。
「写真家」の先生は、メディウムとして写真を使う、つまり写真を単なる道具としか見なしていないような「アーティスト」ではなく、写真そのものを問題とする、「写真家」としか呼びようのないものが写真家である、などと仰せになる。ならばなぜ写真を問題にする必要があるのか。なぜそんなにも写真なるものに固着するのか。それ以上遡らせず「そこに写真があるからだ」的な遁辞に逃げ込むのが彼らの常套手段である。どうにも無理がある。問題の核心というのは、当事者が触れたがらないところに往々にしてあるものだ。
別に写真でなければならなかった理由などない。ただ、ずっと写真でやってきて、自分から写真をとりあげたら何も残らない、それだけのことである。