借景が風景におけるフィクションだと述べた件の続き。
人像においてフィクションとそうでないものとをわけるのは何か。演出というのは大きな契機ではないかと思う。などというと、レンズを向けた時点で相手に影響を与えており……とかいったいつものぐちゃぐちゃした話になりかねないが、その手の議論に興味はないので、制作者の意図通りに対象を変更しようする度合の強いものをフィクションの傾向が大きいと考えることにする。人像であれば、演技をつける、ポーズをとらせるといったものは、「対象を変更する」事態であると考えられる。いわゆるポートレイトとは、基本的に「つくった」表情、姿態、調度であり、フィクションである。証明写真ですら、「左肩を前に出して」「顔をここに向けて」「目はここを見て」「あごを引いて」「首が傾いているから直して」などと注文をつけられる。あるいは撮影者に指示されるのではなく対象本人がみずからつくりあげる。これを、画像がフィクションであることの要件と考えてみる。フィクションとは何であるかは措いておく。
それでは風景画においてはどうか。ところで、人像と風景画とを単純に併置する論点に対する留保も用意しておくべきなのだろうが、退屈そうなのでやる気がしない。さしあたって、人や人に類したものが中心的対象とされている画像は人像、そうでない画像は風景画、そういうことにしておく。それで、対象自体を積極的に改変しようとする意志が働いている場合にはフィクショナルな風景画とみなすことにする。ひところのコンストラクティッド・フォトやらメイク・フォトとかいうのはそれに属するし、ライティングなどの撮影条件を思いのままに制御して意図通りの撮影を行おうとするスタジオ撮影も基本的にそれだろう。対象の条件とは対象に付帯する要素であり、広義の対象だからである。
ストリートスナップではそうした演出を嫌うことが多い。いや必ずしもそうではなく、カメラを向けたことによる相手の反応を写し込むことを主眼とするスナップというサブジャンルもあるわけだが、そのへんにかかずらうと上記のごちゃごちゃに巻き込まれそうなのでやめておく。ともあれ多くのストリートスナップは「絶対非演出」という理念に今なお縛られているかに見える。そして、今行っている一連の写真もまったく同じである。対象そのものに対してはまったく改変を行わない。望ましい条件の時出かけていって、対象には極力干渉せずに撮影するだけである。スナップと何も変わりない。フィクションでないものとは何か。当然ながらノンフィクションということになる。ストリートスナップも、今やっている写真も、まったくひとしくノンフィクションなのである。その点ではなんら隔てるものはない。まあ確かに今やっている写真は一見したところ変ではある。対象の形態が極端に変形されているように見える。しかし、世の中一般の写真が「正常」であり、今やっている写真が「異常」であると示す根拠はどこにもないはずだ。いずれも世界を再現する上での様式のひとつであり、原理的にはそれらの様式は相互に置き換え可能なはずなのである。
だが、話はこれだけでは終わらない。
今書き連ねているのは、冒頭に書いた通り、借景が風景におけるフィクションだと述べた件の続きである。
借景がフィクションだというのは、手が加えられた風景だからというだけにとどまらない。借景を成立させているのは、遠景をすぐ手前の庭の一部に見立てるといった約束事であり、借景とはこの約束事を前提とした絵空事なのであって、そんな約束を理解しない人間にはまったく通用しない。周囲の景観を無惨に破壊されていく円通寺の例でも明らかだ。より概念的な設定に頼っており、フィクショナルな度合が強いと考えられるのは枯山水だろう。枯山水も構成された庭を山や川と見立てる約束事の上に成り立つ。つくりあげられているということよりも、つくられたものについて、さも作為がないかのように見なすべしという合意事項を受けいれなければはじまらないというのがフィクションというものなのではないか。
そして何度も書いてきた通り、いまやっているのは、写真におけるとりきめを徹底して疑うことである。多くのスナップとはここで道がわかれる。そこらへんの適当な場所に出かけていってカメラを普通に構えて写真を撮影すると、たいてい上に空が写り込んだ写真になる。この、上に空がくるというしきたりがどうにも納得いかず、レンズを下にばかり向けるようになった。そして、その結果得られたプリントの天地をあちこちに向けたりして最初の展示を行った。だが、今はずらりと並べた写真の上の部分はすべて真っ青な空である。当初の疑問が解決したわけではないが、これについては可能な限り疑い抜いたという意識がある。今では、線遠近法を疑い、写真に対する違和感をいかに惹起させるかを追求している。よくいわれる「写真論写真」のうち見るべきものは、そのように写真というメディウムやジャンルの約束事にかかわるものである。
フィクションとかノンフィクションとかいった語は、考える便宜上使ってきただけのことで、これらのことばはもう必要ない。わかってきたのは、制作物には、約束事に乗っかっているものと、約束事に疑いを向けさせるものとがありうるということだ。疑いを封じ込め、その世界に没入させることを強いるものと、疑いを誘発し、さまざまに考えさせるもの、といいかえられるかもしれない。
一般に演劇や映画といったものは実に多くの約束事に守られている。舞台やスクリーンの上で成立しているという形式的な面でもそうだし、物語の意味上も多くの「それを言っちゃおしまい」なお約束がある。むろん絵画や写真にも約束事はあるのだが、形式上の約束事はともかく内容に関する約束事はそれ自体が見どころとしてネタ化されやすい。物語が希薄なのでそれくらいしか語りようがないということもあるし、概して没入させるような効果には乏しくて鑑賞者が冷静なためかもしれない。だが世の中には、そういうことにいちいちつっこまずにはいられないひねくれ者というのが存在する。彼らは実は率直な疑問をおさえることができないという意味でむしろ正直で素直なのだが、絵空事を単純に楽しむという能力には欠けている。結果、「映画は楽しんだ者勝ち」といった約束事から落ちこぼれ、わざわざ出かけて出費しながらも満足できず、しかも世間からはネガティヴな敗残者の烙印を押されるというたいへん損な役回りにある。
彼ら、いやわれわれは、あらゆるものを疑ってかかる習癖を持ち、ツメの甘いものには遠慮なくツッコミを入れる。そして「つくられたもの」をうさんくさく思うのだが、それは「つくられていること」が不満なのではなく、輻輳した「お約束」のしちめんどくささと嘘っぽさになじめないのだ。だからわれわれはゲームなどやらないしルールでできているようなスポーツも見ない。人為的ルールに従うことからものごとが展開する仕組みに拒絶反応をもよおす。それはプロレスを嘘くさいものとして拒絶してしまうか、その仕掛けをおもしろがれるかの違いだろう。映画にも暗黙の約束事に揺すぶりをかけるものはもちろんあるのだが、じっとして他人の制作物を見続けさせられるという形式そのものが逆らいがたい約束事である。そのような多くの制約を受けいれずに映画を見ることはできない。シネフィルたちを支えているのは「映画愛」とかいうものらしいが、ついになじめなかった。「映画愛」そのものがお約束としか思えない。われわれに「美術愛」やら「写真愛」なんぞもとからあるわけがない。巨人ファンじゃあるまいし。彼我をわけるものとは、そうした、約束事に対する志向の違いなのではないか。
言いたかったこととだんだんずれてきた。映画と写真の比較なんぞを書くつもりじゃなかったのだ。別に映画というジャンルを貶めたいわけじゃない。写真にも決めごとは山ほどある。
以前にも書いたのだが、かつてシネフィルの人と写真展を見たときに、35mmカメラによる女性のモノクロスナップだったのだが、自然なスナップのようでいて、実はポーズをつけられたことが見てとれる演出された写真で、それはそれでおもしろいし、演出臭が鼻につくというのでもなく、決して嫌いではないのだけれど、演出であることがうかがえるところに違和感があった。ところがそのシネフィルの人に、いいじゃない、撮る人の意図通りに人が振る舞う、どこもおかしくないといった反応を返され、自分が写真の純粋さとか「絶対非演出」というような古めかしい理念に今なお縛られていると気づかされ虚を衝かれた思いだった。でも、そうではなかった。約束事が苦手なのだ。プロレスは「それは言わない約束」に抵触しない限りで参加できるジャンルであろう。そうしたものを楽しむ能力や余裕を欠いている人がおり、「シリアス」な写真にはそうした直球好きの人が確かに多い。その点でストレートフォトの人々と似た境遇にある。
老人はしばしば、劇中という設定を理解できない。お芝居と現実とを混同し、あるTVドラマでチンピラを演じていた俳優が別のドラマで善人になっているのを見て、「この人もずいぶん立派になってよかったねえ」などと感想を漏らす。劇中と現実とは別物ですよというお約束をやすやすと反古にしてしまうそのような老女は、そうしたお約束に異を唱えるだけにとどまるわれわれのはるかな先を行っている。あらゆる前提を疑ってかかる、これはある時期までの現代美術、美術にまだフロンティアがあった時代の現代美術の態度である。ジャンルが成熟すると約束事に約束事を重ねる複雑化を辿る。今や現代美術が複雑怪奇な約束事の塊に退行してしまったことに示されるように、いずれそれは袋小路に陥る。むしろ先ほどの老婆のように、そうしたお約束を無効化し、軽々と飛び越えることにこそ進むべき途があり、それがかつて提唱した「健忘症的美術」なのかもしれないがこことかここ、その境地には残念ながらまだまだ遠い。現状では単なるバカどまりである。バカにできることは何か。徹底して疑うこと、愚直に問いを発し続けること、大昔からそれしかない。